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ジャーファル・ムハンマド・アン=ヌメイリー (アラビア語 : جعفر محمد النميري , ラテン文字転写 : Gaafar Muhammad an-Numeiry , 1930年 1月1日 - 2009年 5月30日 )は、スーダン の軍人、政治家。同国の革命評議会議長、大統領 (第3・5代)、首相 (第9・11代)などを歴任した。
経歴
左からヌメイリ、ナセル、カダフィ(1969年)
スーダンの首都ハルツーム 近郊オムドゥルマン のワド・ヌバウィ出身。父は郵便職員で曾祖父はドンゴラ のワド・ヌメイリーの族長である。
1952年 にスーダン軍事大学を卒業し、そこで同年にエジプト で権力を握るガマール・アブドゥン=ナーセル の自由将校団 の影響を受けた。1966年 ヌメイリはカンザス州 のアメリカ陸軍 のレヴンワース基地 のアメリカ陸軍指揮幕僚大学 を卒業した。3年後ヌメイリーはイスマイール・アル=アズハリー (英語版 ) の文民政権を倒す軍事クーデタを指揮し、権力を握った。ヌメイリーは社会主義 かつ汎アラブ主義 的改革を行った。1970年にはサーディク・アル=マフディー (英語版 ) によるクーデターを防いだ。
同年9月にエジプト のナセル大統領 が死去すると同国を訪問。弔問外交 の場でナセル後のアラブ政策を検討するためにアラブ首脳会議 の開催を呼び掛けるなど、アラブ諸国に存在感を示した[ 1] 。
1971年7月18日から22日の短期間アッタ少佐率いる共産主義者に権力を奪われるも回復して閣僚のジョセフ・ガラン (英語版 ) らスーダン共産党 員を処刑してソ連の軍事顧問を追放し[ 2] 、中ソ対立 を起こしていた中華人民共和国 [ 3] [ 4] [ 5] や西側諸国 から武器の援助を受けた。9月15日の大統領選挙に98.6%の得票で当選すると10月10日に大統領に就任し、10月14日革命評議会を解散した。
1972年にエチオピア の皇帝ハイレ・セラシエ1世 の仲裁[ 6] でアディス・アベバ合意 で17年間続いた第一次スーダン内戦 を終結させた。また、エジプトのアンワル・アッ=サーダート によるイスラエル とのキャンプ・デービッド合意 を支持していたことからリビア のムアンマル・アル=カッザーフィー との軋轢があり[ 7] 、カッザーフィーをライバル視したザイール のモブツ・セセ・セコ と友好的関係を築き[ 8] 、リビアの抜けたアラブ共和国連邦 に再加盟したりした[ 9] [ 10] [ 11] 。
1981年 にムスリム同胞団 に接近して政策を転換した。1983年 には国政にシャリーア (イスラム法)を導入し、アディスアベバ合意に反して南部スーダン 政府も解散させたことなどで南部の黒人 (主にアニミズム 、一部キリスト教徒 )の反感を買い、第二次内戦 を招いた。1985年 にヌメイリはアズハリ政権時代に宗教的扇動者として訴えられ、背教者とされる判決を受けていたイスラム改革主義者のマフムード・ムハンマド・ターハー の処刑を認めた。4月6日 ヌメイリーはスワル・アル=ダハーブ将軍によるクーデター で失脚し、政治生命を絶たれエジプト に亡命、カイロ のヘリオポリス で過ごした。政権は翌年選挙によりかつてクーデターを首謀したイスラーム主義 者のサーディク・アル=マフディーに移った。
1999年 5月にスーダンへ戻り、熱烈な歓迎を受け、彼の批判者を驚かせた。国民会議 を支持し大統領選挙で9.6%の票を獲得した。
2009年5月30日に死去した。このことはスーダン政府当局者によって明らかにされた。満79歳没。
参照
外部リンク
アフリカ統一機構 (1963 - 2002) アフリカ連合 (2002 - )
1 代行。