メアリー・オブ・グレートブリテン(Mary of Great Britain, 1723年3月5日 - 1772年1月14日)は、イギリス国王ジョージ2世の娘、ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の最初の妃。ドイツ語名マリア・フォン・ハノーファー(Maria von Hannover)。
生涯
イギリス王太子ジョージ(後のジョージ2世)と妃キャロラインの娘として、1723年3月5日(グレゴリオ暦)にロンドンのレスター・ハウス(英語版)で誕生した[1]。
1740年5月8日に代理人を立てて、ヘッセン=カッセル方伯世子フリードリヒと結婚、おそらく6月末にカッセルで改めて本人による結婚式を挙げた[1]。同年10月の舞踏会でメアリーを見かけた作家ヤーコプ・フリードリヒ・フォン・ビールフェルト(英語版)はメアリーを「背が高く、画家のモデルに適する程度のいい見た目」と形容した[1]。ホレス・ウォルポールはフリードリヒを「粗野な畜生」と形容し[1]、1746年末にはメアリーがカッセルで受けた虐待から回復するためにイギリスで休養した[2]。
1749年に夫が死後にカトリックの愛人と再会できると考え、秘密裏にカトリックに改宗した[2]。1754年に改宗が明らかになると、メアリーはそれを口実に1755年2月に別居した[2]。ジョージ2世はメアリーに帰国を促したが、メアリーは下の息子とともにいたいと考え、義父ヴィルヘルム8世の支援を受けて息子たちとともにハーナウに住んだ[1]。七年戦争の勃発により、1757年にフランスがヘッセン=カッセル方伯領に侵攻すると、メアリーは義父とともにハンブルクに逃亡したが、一時窮乏した状況に陥ったため、イギリスでは首相大ピットが議会の開会を待たずに援助金として2万ポンド送金した[1]。メアリーは翌年には終身の年金5,000ポンドを与えられた[1]。
1760年2月1日にヴィルヘルム8世が死去すると、夫が方伯位を継ぎ、メアリーも方伯妃になった[1]。夫は長男ヴィルヘルムをハーナウ伯とし、カールが成人する1764年10月13日までメアリーを摂政とすることを定めた[2]。摂政となったメアリーは貨幣の製造権を持つようになり、君主のように自身の名前、称号、半身像、ヘッセン=カッセルとグレートブリテンの紋章が刻まれた硬貨を発行した[2]。
息子が統治するようになった後もハーナウに住み、イギリス王家との文通を続けた[2]。1769年には兄の息子にあたるグロスター=エディンバラ公ウィリアム・ヘンリーが大陸ヨーロッパ旅行の一環としてハーナウでメアリーのもとを訪れた[2]。
1772年1月14日にハーナウで死去、2月1日に同地のプロテスタント教会(現聖マリア教会(ドイツ語版))に埋葬された[1]。メアリー死去の報せは1月25日にロンドンにもたらされ、悲しみをもって受け入れられた[1]。1月27日のパンテオン(英語版)営業開始に欠席する人物が出るほどだった[1]。遺産は下の息子カール、フリードリヒが相続し、上の息子ヴィルヘルムは1785年に方伯位を継いだ[1]。カールもフリードリヒも軍人になったほか、多くの子孫の残し、中にはエドワード7世王妃アレクサンドラ、ジョージ5世王妃メアリーのようにイギリス王家に嫁ぐ人物も含まれた[2]。
子女
メアリーは夫との間で4男をもうけ、うち長男が夭折した[2]。
出典
外部リンク