マックス・ランデー(Max Linder, 1883年12月16日 - 1925年10月31日)は、フランスの俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサーである[1][2]。チャールズ・チャップリン登場前のサイレント映画初期の喜劇王である[3]。日本では、マックス・ランデ[3]、マックス・ランデール[4]等とも表記された。
人物・来歴
1883年(明治16年)12月16日、ジロンド県サン=ルーベに生まれる[1]。
1905年(明治38年)、パテ・フレール(パテ)が製作し、ルイ・ガスニエが監督した短篇コメディ La première sortie d'un collégien に主演したのが、もっとも古い出演記録である[1]。1908年(明治41年)には主演作の短篇コメディ L'obsession de l'équilibre を演出し、映画監督としてもデビュー、以降、多く自作自演している[1]。
1917年(大正6年)にはアメリカ合衆国に渡り、エッサネイ・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニー(エッサネイ・スタジオ)で、短篇コメディ『マックスの渡米』を監督、主演者としてマーサ・マンスフィールドらと共演する[5]。同年、エッサネイで、マーサ・マンスフィールドを相手役に『マックスの離婚』、『マックスの運転手』を発表する[1]。
1921年(大正10年)、アメリカでマックス・ランデー・プロダクションズを立ち上げ、長篇コメディ『ライオンと征服将軍』、『女房欲しさに』、翌1922年(大正11年)には『三笑士』を製作、いずれも監督・主演している[1][6]。1923年(大正12年)8月2日、ジーン・ピーターズと結婚、翌1924年(大正13年)6月に長女が誕生する[1][7]。同年、オーストリアのヴィタフィルムが製作した『脱線曲馬王』、アベル・ガンスが自らのプロダクションで製作・監督した Au secours! に出演している[1]。
1925年(大正14年)10月31日、パリで、ヴェロナール(バルビタール)の大量摂取による自殺を図り、死去した[1]。満41歳没。出身地のサン=ルーベ墓地に眠る[2]。
おもなフィルモグラフィ
特筆以外すべて出演作である[1]。1905年 - 1915年の時期の190作に関しては、短篇が多く[1]、おもなものに留めた。
1900年代
- La première sortie d'un collégien : 監督ルイ・ガスニエ、1905年 - 主演
- L'obsession de l'équilibre : 1908年 - 監督・主演
1910年代
1920年代
関連事項
日本での主な紹介文献
註
外部リンク