"ハングマン" ボビー・ジャガーズ("Hangman" Bobby Jaggers、本名:Robert F. Jeaudoin、1948年1月8日 - 2012年9月30日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ワシントン州バンクーバー出身。
1970年代から1980年代にかけて、カウボーイ・ギミックのヒールとして活躍した[1]。1975年にスタン・ハンセンが初来日した際のタッグ・パートナーとしても知られる[2]。
来歴
1966年にアメリカ陸軍に入隊し、ベトナム戦争に従軍後、地元のワシントンやオレゴンをサーキット・エリアとするパシフィック・ノースウエスト・レスリング(PNW)のプロモーターだったサンディ・バー(ジェシー・バーの父親)にスカウトされ、1972年にアル・マドリルを相手にデビュー[3]。キャリア初期は "ムーンドッグ" ロニー・メインの弟と称し、ボビー・メイン(Bobby Mayne)のリングネームで活動していた[1]。
アリゾナやテネシー、カンザスシティのNWAセントラル・ステーツ地区などを経て、ボビー・ジャガーズ(Bobby Jaggers)と改名してテキサスのアマリロ地区に入り、1975年9月にドリー・ファンク・ジュニアのブッキングでスタン・ハンセンと共に全日本プロレスに初来日[2]。大型の若手カウボーイ・コンビとして、荒削りながらイキのいいラフファイトを展開した。ハンセンとは来日前からアマリロでタッグを組んでおり、ムース・モロウスキー&サイクロン・ネグロなどのチームから勝利を収めたという[2]。
1976年下期より中南部のNWAトライステート地区に進出して、12月2日にケン・パテラからブラスナックル王座を奪取[4]。以降も中西部や中南部を主戦場に、マイク・ジョージやポール・オーンドーフと抗争した[5][6]。1979年はジン・キニスキーらが運営していたカナダ・バンクーバーのNWAオールスター・レスリングや、ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにて活動。バンクーバーではダッチ・サベージやアドリアン・アドニスと抗争し[7]、ジョージアではアマリロでの旧友スタン・ハンセンと対戦[8]、当時スターリング・ゴールデンと名乗っていた若手時代のハルク・ホーガンともタッグを組んでいる[3]。
1980年3月、覆面レスラーのミステリアス・アサシン(The Mysterious Assassin)に変身して全日本の第8回チャンピオン・カーニバルに出場。開幕戦ではジャイアント馬場からリングアウト勝ちを拾っている[9]。同大会ではアマリロやジョージアでライバル関係にあったレイ・キャンディと共にアブドーラ・ザ・ブッチャーを援護射撃し、テリー・ファンク、ディック・スレーター、テッド・デビアスのファンク・ファミリーと軍団抗争を繰り広げた(シリーズ中に覆面を剥がされ、終盤は素顔のボビー・ジャガーズとして出場している)[10]。
帰国後はR・T・タイラーとのカウボーイ・コネクション(The Cowboy Connection)でNWAフロリダ地区に登場。1980年12月2日、バリー・ウインダム&スコット・マギーを下してフロリダ・タッグ王座を獲得し、ダスティ・ローデスとアンドレ・ザ・ジャイアントの強力チームとも対戦した[11]。シングルでは同年10月11日にバグジー・マグローからフロリダ・ヘビー級王座を、1981年6月にジャック・グレイから南部ヘビー級王座をそれぞれ奪取している[12][13]。
1982年末よりテキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングに参戦して、正義派カウボーイのスコット・ケーシーと抗争を展開[14]。1983年6月、負傷欠場中のジョナサン・ボイドに代わってルーク・ウィリアムスのパートナーとなり、ボイドが保持していたサウスウエスト・タッグ王座を継承するが、7月4日のボブ・スウィータン&スウィート・ブラウン・シュガー戦の試合後にウィリアムスと仲間割れしてベビーフェイスに転向[15]。以降、マニー・フェルナンデスと組んでウィリアムス&ブッチ・ミラーのザ・シープハーダーズとデスマッチの連戦を繰り広げた[16]。1984年6月16日にはキラー・ブルックスを破り、サウスウエスト・ヘビー級王座も獲得している[17]。
1984年秋より古巣のPNWに定着。初期はベビーフェイスとしてリップ・オリバーやカール・スタイナー、マイク・ミラー、後にヒールに戻ってリッキー・ヴォーンやトム・ジンク、ビリー・ジャック・ヘインズらとパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を争い、PNWのフラッグシップ・タイトルだった同王座を通算4回獲得した[18]。1985年4月にはザ・ダルズ、セイラム、ユージーンにおいて、リック・フレアーの保持していたNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦している[19]。
1986年下期から1987年にかけては、晩年のホームタウンとなった中西部のセントラル・ステーツ地区に出場しつつ、ベビーフェイスのポジションでジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区にも参戦。同じくカウボーイをギミックとしていたダッチ・マンテルとカンザス・ジェイホークス(The Kansas Jayhawks)[20]を結成して、ジム・コルネット率いるミッドナイト・エクスプレス(ボビー・イートン&デニス・コンドリー)と抗争した[21]。1986年11月27日の『スターケード』アトランタ大会では、ザ・ラシアンズ(イワン・コロフ&クラッシャー・クルスチェフ)が保持していたUSタッグ王座に挑戦している[22][23]。
1988年はプエルトリコのWWCにて、"ダンディ" ダン・クロファットと組んでジェイホークスをヒール・バージョンで再編。カンザスシティ・ジェイホークス(The Kansas City Jayhawks)の新チーム名のもと、マーク&クリス・ヤングブラッドのレネゲード・ウォリアーズとのカウボーイ対インディアンの抗争を展開した。同年7月17日のブルーザー・ブロディ刺殺事件の際は、同じ控室に居合わせている[3]。1989年にはフロリダでブラック・バートを新パートナーにナスティ・ボーイズとタッグ王座を争った[11]。
キャリア末期はWWFのカンザスでの興行に単発出場して、ジム・ナイドハートやザ・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)のジョバーを務めた[24]。1991年の引退後も、かつての主戦場だったカンザスに居住。2004年2月には、カンザスのインディー団体 "Bad Boys of Wrestling" のコミッショナー役としてプロレスファンの前に久々に登場した[1]。
2012年9月30日、64歳で死去[3]。
得意技
獲得タイトル
- NWAミッドアメリカ
- NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
- NWAトライステート
- NWAオールスター・レスリング
- チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
- サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング
- パシフィック・ノースウエスト・レスリング
- NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座:4回[18]
- NWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座:2回(w / リップ・オリバー、デビッド・シェラ)[31]
- セントラル・ステーツ・レスリング
- NWAセントラル・ステーツTV王座:1回[32]
- NWAセントラル・ステーツ・タッグ王座:1回(w / ムーンドッグ・モレッティ)[33]
- ワールド・レスリング・カウンシル
脚注
外部リンク