サー・ヘンリー・セシル(Sir Henry Richard Amherst Cecil、1943年1月11日 - 2013年6月11日[1])は、イギリスの競走馬の調教師。
1964年から1968年まで、継父のセシル・ボイドロッチフォート調教師の下で調教助手を務めた。
1969年、調教師免許を取得し厩舎を開業。
1973年、クルーナフ(Cloonagh)でアイリッシュ1000ギニーを勝ち、G1及びクラシック競走初制覇[2]。
1975年、ボルコンスキー(Bolkonski)で2000ギニーを勝ち、イギリスクラシック競走初制覇。
1976年、義父のノエル・マーレス調教師[3]の引退に伴い、厩舎を引き継ぐ。同年、初めてリーディングを獲得した。
1985年、6月5日にスリップアンカー(Slip Anchor)でダービーステークス初制覇。また同年、オーソーシャープ(Oh So Sharp)で1000ギニー・オークス・セントレジャーステークスを制し、牝馬クラシック三冠を達成した。
1987年、7月25日にリファレンスポイント(Reference Point)でキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス初制覇。同馬はダービーステークス・セントレジャーステークスの二冠も制した。この年は180勝を挙げ、120年ぶりにイギリスの最多勝記録を更新した。
1990年、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス勝ち馬のベルメッツ(Belmez)がジャパンカップに出走。管理馬の日本初出走を果たしたが、1番人気に推されながら7着に敗れた。日本への遠征はこの1回のみである。
1995年、シェイク・モハメドと決別。マークオブエスティーム(Mark of Esteem)の故障を迅速に報告しなかったことがきっかけとされる[4]。
1997年、10月4日にヤシュマク(Yashmak)でフラワーボウルインビテーショナルハンデキャップを勝ち、ヨーロッパ以外のG1初制覇。
1999年、ラムルマ(Ramruma)でオークス・アイリッシュオークス・ヨークシャーオークスを制し、ヨーロッパオークス三冠を達成した。またこの年、妻[5]と主戦騎手のキーレン・ファロンとの間に不倫疑惑が報じられ、ファロンとの専属契約を解除した。
2000年、6月25日にビートホロー(Beat Hollow)でパリ大賞典を制して以降、長らく大レースから遠ざかることとなる。2001年にはリーディングトップ10の座から脱落。2005年の年間収得賞金は僅か14万5000ポンドで、ランキングを97位まで落とすことになった。かつては200頭を越えていた管理頭数も、60頭を切るまでに減少した。
2006年、11月21日にパッセージオブタイム(Passage of Time)でクリテリウムドサンクルーを勝ち、6年5ヶ月ぶりにG1を制覇。2007年のシーズン開幕前には癌に冒されていることを公表したが、その病魔と戦いながら厩舎運営を続ける。そして6月1日、ライトシフト(Light Shift)で8度目のオークス制覇を果たして称賛を浴びた。
2009年、11月6日にミッデイ(Midday)でブリーダーズカップ・フィリー&メアターフを勝ち、ブリーダーズカップ初制覇。
2011年、6月に2011 Birthday Honoursで、ナイトの称号を授与された。
2011年、フランケルでマイルレースを席巻するが、癌との闘病生活も始まる。
2012年、古馬となったフランケルで中距離のレースを総なめ、14戦14勝で無敗のまま引退し、名伯楽の評価を確固たるものとした。
2013年6月11日に死去[1]。70歳。妻のジェーン・セシルが調教師として引き継いだ[6][7]。
オークスで8勝、1000ギニーで6勝を挙げているが、どちらもロバート・ロブソン調教師に次ぐ第2位の記録である。また10勝を挙げているレーシングポストトロフィー(前身のフューチュリティステークスなど含む)、8勝を挙げているナッソーステークス、7勝を挙げているサセックスステークスで最多勝記録を持つ。
主戦騎手はトム・クウィリー。かつての主戦騎手はスティーブ・コーゼン、キーレン・ファロンなど。
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