もとはマンハッタン島の低木・沼地・岩場の中を通る、アメリカ先住民の使っていた道 Wickquasgeck Trail (ウィクカスゲック・トレイル)であった[1]が、マンハッタン南端にニューアムステルダム植民地を作ったオランダ人が農場への往還などに利用した。オランダ人探検家・起業家 David de Vries が1642年に書いた記録には、「日頃インディアンたちが通る Wickquasgeck Road[2]」という記述が見られる。
オランダ人はこの道に Heerestraat と命名した[3]。1776年のニューヨーク市の地図では、ブロードウェイは現在のように単にBroadwayではなく"Broadway Street"と記載されている[4]。18世紀半ば頃には、イギリス人はロウワー・マンハッタンの市街地を貫く部分にグレート・ジョージ・ストリート ("Great George Street") と名付けていた[5]。18世紀のブロードウェイはウォール街の少し北の現在のシティ・ホール・パークあたりの公園までで、その先はマンハッタン島の西部を走るブルーミングデール・ロード(Bloomingdale Road) と名付けられていた。ブルーミングデール・ロードは独立戦争の際には英軍に敗れた独立軍撤退の道となった。
農場や森が残っていたマンハッタン中央部や北部は次第に都市化されていったが、19世紀初頭の1811年委員会計画で、マンハッタン全体に格子状の街路を作るという都市計画が立てられた。以後、まだ都市化されていなかったマンハッタンエリアの従来の野道は格子状街路に置き換えられて消えていったが、ブルーミングデール・ロードだけは残ることになる。ブルーミングデール・ロードは19世紀の間に拡張・舗装され、コロンバス・サークルより北の区間は19世紀後半にはザ・ブールバード ("The Boulevard") と名付けられる。1899年2月14日に"Broadway"はかつてのBroadway/Bloomingdale/Boulevardをつなげた全区間を指すようになった[6]。
1902年2月3日付けのen:New York Evening Telegramによってブロードウェイのタイムズスクエアあたりは "Great White Way" と呼ばれるようになり、劇場街としてエンターテイメント産業が隆盛を誇った。多くのきらびやかな劇場が建ち並び、イルミネーション、看板(マーキー)、ビルボードや広告がこのエリアを飾った。家族連れや子供連れでも楽しめる街だったが、1970年代から80年代にかけて舞台演劇の衰退とともにポルノ産業が進出して治安が悪化した。1990年代に入り、市長であるルドルフ・ジュリアーニの提唱により情報・音楽・娯楽関連企業の大型店舗が誘致され、治安が回復した。治安悪化に悩む自治体のモデルともなった。
ブロードウェイの基点となる公園ボウリング・グリーンから、市庁舎前のシティ・ホール・パークまでの、フィナンシャル・ディストリクトを貫く部分は、両側を金融機関などの超高層ビルが立ち並ぶ。この区間は、兵士やスポーツチームなどの凱旋行進が行われることが多く「英雄たちの峡谷」("Canyon of Heroes") の異名でも呼ばれる。こうしたパレードは「ティッカーテープ・パレード」と呼ばれ、もとは銀行員らが電信用のティッカーテープの紙吹雪を両側のビルからパレードの主役や観客の上に降らせた。現在もシュレッダーをかけた紙束などが紙吹雪として使われている。
^February 14th in NYC History: 1899Archived 2012年9月6日, at Archive.is, referred to as "the 'Western' Boulevard"; called "the 'Grand' Boulevard" in The New York Times, February 1869, quoted in Michael V. Susi, The Upper West Side "Introduction", 2009:7.