第9代エクセター伯爵 ブラウンロー・セシル (英語 : Brownlow Cecil, 9th Earl of Exeter FRS 、1725年 9月21日 – 1793年 12月26日 )は、グレートブリテン王国 の貴族、政治家。1754年までバーリー卿 の儀礼称号 を使用した[ 1] 。
生涯
第8代エクセター伯爵ブラウンロー・セシル とハンナ・ソフィア・チェンバーズ(Hannah Sophia Chambers 、1702年頃 – 1765年4月30日、トマス・チェンバーズの娘)の息子として、1725年9月21日に生まれ、25日にスタンフォード (英語版 ) の聖マーティン教会 (英語版 ) で洗礼を受けた[ 1] 。1732年から1742年までウィンチェスター・カレッジ で教育を受けた後[ 2] 、1744年11月9日にケンブリッジ大学 セント・ジョンズ・カレッジ に入学、1749年にLL.D. の学位を修得した[ 3] 。同年にオックスフォード大学 によりD.C.L. (英語版 ) の学位を授与された[ 3] 。
1747年イギリス総選挙 に出馬してラトランド選挙区 (英語版 ) とスタンフォード選挙区 (英語版 ) で当選、前者の代表として庶民院 議員を務めた[ 2] 。1754年11月3日に父が死去すると、エクセター伯爵 位を継承した[ 1] 。
1751年から1779年までラトランド統監 (英語版 ) を務めた[ 2] 。
1767年1月15日、王立協会フェロー に選出された[ 4] 。
1793年12月26日にバーリー・ハウス (英語版 ) で死去、1794年1月14日にスタンフォード (英語版 ) の聖マーティン教会 (英語版 ) に埋葬された[ 1] 。弟トマス・チェンバーズ・セシルの息子ヘンリー・セシル が爵位を継承した[ 1] 。
家族
1748年7月27日にレティシア・タウンゼンド(Letitia Townshend 、1756年4月17日没、ホレイショ・タウンゼンド閣下 (英語版 ) の娘)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[ 2] 。1770年4月23日、アン・マリア・チータム(Anne Maria Cheatham 、ジョブ・チータムの娘)と再婚した[ 1] 。
出典
^ a b c d e f Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 220–221.
^ a b c d Cruickshanks, Eveline (1970). "CECIL, Brownlow, Lord Burghley (1725-93)." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年7月26日閲覧 。
^ a b "Cecil, Brownlow, Lord Burghley. (CCL744B)" . A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
^ "Cecil; Brownlow (1725 - 1793); 9th Earl of Exeter" . Record (英語). The Royal Society . 2020年7月26日閲覧 。