ブライアン・エドワーズ(英語: Bryan EdwardsFRS、1743年5月21日 – 1800年7月16日)は、グレートブリテン王国の政治家、歴史家。その出自から奴隷貿易を強く支持し、奴隷制度廃止運動の指導者ウィリアム・ウィルバーフォースから強敵(a powerful opponent)であると評された[1]。著作『西インドにおけるイギリス植民地の内政史と貿易史』(History, Civil and Commercial, of the British Colonies in the West Indies、1793年初版、1794年第2版、1819年第5版[1][2])はフランス語、ドイツ語など5言語に翻訳され、後世にもイギリス領西インドの歴史学者として評価されている[2]。1796年から1800年まで庶民院議員を務め、奴隷貿易の支持者としてウィルバーフォースや首相小ピットと対立した[3]。
1793年、ロンドンで『西インドにおけるイギリス植民地の内政史と貿易史』(History, Civil and Commercial, of the British Colonies in the West Indies)を出版[2]、同年にダブリンでも出版した[1]。同書はイギリス領西インド諸島の歴史についてその起源と発展、政治制度や慣習から農業、貿易にいたるまでと幅広い分野をカバーし、フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、イタリア語に翻訳された[2]。1793年の初版では2巻だったが、1794年の第2版で地図などが追加され、死後の1801年には自伝とマルーン戦争史に関する著作が第3巻として追加され[1]、1819年の第5版で5巻になった[2]。『西インド史』の出版により、エドワーズは奴隷制度における虐待の存在を認める、奴隷制度の擁護者のうち穏健派に属する人物としての名声を得た[3]。1794年5月22日、王立協会フェローに選出された[12]。このように奴隷制度を改革しつつ存続させるべきという立場だったため、1795年に詩人ウィリアム・プレストン(英語版)から遺憾の意を示す手紙を送られた[1]。
1796年に総選挙が行われると、グラムパウント選挙区(英語版)から出馬、同選挙区の新しいパトロンになった初代準男爵サー・クリストファー・ホーキンス(英語版)の支持を受けて、旧来のパトロン初代エリオット男爵エドワード・エリオット(英語版)の推す候補を破って当選した[14]。1796年6月には選挙での疲労によりロンドンを訪れられない状況にあったが、後に回復して、同年10月21日に議会で初演説した[3]。演説の内容は第2次マルーン戦争(英語版)に敗れたジャマイカのマルーン(英語版)の処置について、議会の決定を非難するものだったが、その日の議題と関係がないとしてチャールズ・アボット(英語版)議員に批判された[3]。この演説直前にマルーンの処置に関するジャマイカ議会の議事録が出版される予定であるとの告知を受けて、Observations on the disposition, character, manners, and habits of life, of the maroons, and a detail of the origin, progress, and termination of the late war between these people and the white inhabitantsという題名でマルーンの歴史と第2次マルーン戦争に関する著作を書き上げ、議事録に同梱される形で11月に出版した[15]。ジャマイカ政府によるマルーンへの処置についてチャールズ・ジェームズ・フォックスにより本国議会で質疑されたため、それに答えるという目的もあったという[15]。同年にアフリカ内陸部探検促進協会(Association for Promoting the Discovery of the Interior Parts of Africa)の設立準備が行われている最中、初代準男爵サー・ジョゼフ・バンクスへの手紙で同協会が奴隷貿易に反対した場合、この立場がアフリカ探検への障害になるだろうと述べた[3]。エドワーズは翌年にバンクスの後任として協会の秘書に就任、以降1800年に死去するまで務めた[3]。
1797年にサン=ドマングでの見聞や同植民地の歴史に関する著作An Historical Survey of the French Colony in the Island of St Domingoを出版した[1]。エドワーズはこの著作でフランスの植民者による黒人奴隷への待遇を批判し[1]、イギリスによるサン=ドマング併合に反対した[2]。一方で議会では1797年5月18日の発言でイギリス政府による1791年のハイチ革命への対応を批判し、革命が勃発した時点で介入しなかったため「サン=ドマングが黒人植民地になることを全ヨーロッパが阻止できなくなった」と述べた[3]。この著作は概ね好評で、批評家からも賞賛されたが、フランスの植民地官僚から怒りの手紙を届けられた[1]。
Thoughts on the late Proceedings of Government respecting the Trade of the West India Islands with the United States(1784年、パンフレット) - 自由貿易を主張して、イギリスによる対アメリカ13植民地の戦争を批判する著作[1]
Speech at a free Conference between the Council and Assembly of Jamaica on Mr. Wilberforce's Propositions concerning the Slave Trade(1790年) - ウィリアム・ウィルバーフォースの演説を受けたジャマイカ諮問委員会とジャマイカ議会の合同会議における、エドワーズの演説[1]
Poems, Written Chiefly in the West Indies(1792年[2]) - エドワーズの詩作で、主に友人の間で流通した[1]
『西インドにおけるイギリス植民地の内政史と貿易史』(History, Civil and Commercial, of the British Colonies in the West Indies、1793年初版、ロンドン、2巻。1794年第2版。1819年第5版、5巻[1][2]) - フランス語、ドイツ語、オランダ語、ポルトガル語、イタリア語に翻訳された[2]
Observations on the disposition, character, manners, and habits of life, of the maroons, and a detail of the origin, progress, and termination of the late war between these people and the white inhabitants(1796年、ロンドン、ジョン・ストックデイル(英語版)による出版) - The Proceedings of the Governor and Assembly of Jamaica, in Regard to the Maroon Negroesに同梱[15]
^ abFeurtado, Walter Augustus (1896). "C - E". Official and Other Personages of Jamaica from 1655 to 1790 (英語). Kingston, Jamaica: W. A. Feurtado's Sons.
^"Zachary Bayly". Legacies of British Slave-ownership (英語). University College London. 2020年10月12日閲覧。
^ abcThorne, R. G.; Murphy, Brian (1986). "Southampton". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月12日閲覧。
^ abThorne, R. G. (1986). "Grampound". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月12日閲覧。