フレデリック・スワード
フレデリック・ウィリアム・スワード (Frederick William Seward , 1830年 7月8日 - 1915年 4月25日 )は、アメリカ合衆国 の政治家 。1861年 から1869年 まで、また1877年 から1879年 まで、アメリカ合衆国国務次官補 を務めた。
生い立ちと家族
1830年 7月8日 、スワードはニューヨーク州 オーバーン において、国務長官 ウィリアム・ヘンリー・スワード とフランシス・アデライン・スワード の次男として誕生した。スワードは1849年 にユニオン大学 を卒業し、1851年 にニューヨーク州ロチェスター で弁護士として認可を受けた。スワードは1849年 から1857年 まで父親の秘書として働き、1851年 から1861年 までオールバニ・イヴニング・ジャーナル の副編集長を務めた。
南北戦争
スワードの父親が1861年 に第24代国務長官 として指名されると、スワードは第6代国務次官補 に任ぜられた。スワードはエイブラハム・リンカーン 大統領とアンドリュー・ジョンソン 大統領の下で領事館の管理を任された。スワードは1869年 まで国務次官補を務めた。
スワード国務長官襲撃事件
フレデリック・スワードを拳銃で殴打するルイス・パウエル
1865年 4月14日 、ワシントンD.C. のフォード劇場 においてリンカーン大統領暗殺事件 が発生した。犯人グループはこのとき政府高官を同時殺害する計画を立てており、国務長官であった父のウィリアム・スワード の暗殺はルイス・パウエル が担当することになっていた。
パウエルはまず国務長官ウィリアム・スワード邸に侵入することを企図し、応対した使用人ウィリアム・ベルを「医薬品の配達のために来た」と欺いて邸内に入った。だがそのとき家にいたフレデリック・スワードは、配達を依頼した覚えがないがないことを疑問に思い、パウエルを立ち去らせようとした。パウエルは暗殺の邪魔立てをするフレデリックを排除するため、フレデリックの頭部に拳銃を向けて引き金を引いたが、幸運なことに銃は不発だったため、パウエルは、フレデリックの頭部めがけて拳銃を数度振り下ろして殴打した。その結果、フレデリックは脳震盪を起こし、床へ崩れ落ちた。
その後パウエルは国務長官ウィリアム・スワードの部屋へ押し入り、ウィリアムの顔や首を数回にわたって刃物で突き刺した。パウエルはさらにウィリアムの末娘ファニー・スワード、長男オーガスタス・スワード 、看護兵ジョージ・ロビンソン 軍曹、使送員エメリック・ハンセルら、その場に居合わせた人々を次々と負傷させた。
晩年
1874年 、スワードはニューヨーク州下院議員に選任された。スワードは1877年 から1879年 まで、ラザフォード・ヘイズ 政権のエヴァーツ 国務長官の下で2度目の国務次官補を務めた。スワードはまた、1872年 に死去した父親の自叙伝や手紙をまとめ、出版した。
スワードはニューヨーク州オールバニ 出身のアンナ・ウォートンと結婚し、ニューヨーク州モントローズ に建てた自邸で晩年を過ごした。スワードは1881年 以降、法律専門家としての講義活動や執筆活動に専念した。
1915年 4月25日 、スワードは85歳で死去した。スワードの遺体はニューヨーク州オーバーン のフォートヒル墓地 に埋葬された。スワードの死の翌年1916年 、南北戦争に関する政治活動を描いた500ページの書籍『Reminiscences of a War-Time Statesman and Diplomat, 1830-1915 』が刊行された。