フランクリン・ファーナム(Franklyn Farnum, 1878年6月5日 - 1961年7月4日)は、アメリカ合衆国の俳優である[1]。本名ウィリアム・スミス(William Smith)[1]。
1878年(明治11年)6月5日、マサチューセッツ州ボストンに生まれる[1]。
12歳となる1890年(明治23年)ころからヴォードヴィルの舞台に立ち、満34歳となった1913年(大正2年)、ニューヨーク・ブロードウェイのブロードウェイ劇場(現存せず[2])で、ミュージカル Somewhere Else の舞台に立った記録がある[3]。
1897年(明治30年)、メアリー・E・ケイシーと結婚、1898年(明治31年)3月3日、ボストンで長女のマーサ・リリアン・スミスが生まれたが、1900年(明治33年)に夫婦は離別(生死別は不明)している[1]。
1916年(大正5年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に入社、同社傘下のレックス・モーション・ピクチャー製作、ウィリアム・ウォーシントン監督、ベス・メレディス脚本の短篇映画 The Heart of a Show Girl に主演して、映画界にデビューする[1]。同年、同社傘下に設立されたブルーバード映画で、ウォーシントン監督の『死の舞踏』でドロシー・クラークと共演、『旅の人』、『悪魔の勘定日』、The Man Who Took a Chance, The Clock, Bringing Home Father, 『力の勝利』、The Clean-Up, に立て続けに主演、エルマー・クリフトン監督の A Stormy Knight, ジョセフ・ド・グラス監督の『恐ろしき里』、『故郷の空』、 『黒き雨』、『誰の手に』、リン・F・レイノルズ監督の『錦繍の楔』、ダグラス・ジェラード監督の『報酬五千弗』、『秘密の家』、ふたたびド・グラス監督の『靈の導き』と、1918年(大正7年)までに主演を続け[1]、5作を除いたすべてが日本でも公開された[4]。2人目の妻イーディスとの結婚・離別の時期は不明であるが、満40歳となった同年6月14日、19歳年下で当時21歳の女優アルマ・ルーベンスと3度目の結婚、翌月には離婚している[1]。
1919年(大正8年)にはユニヴァーサルを去り、キャニオン・ピクチャーズで短篇や長篇の西部劇に主演するほか、1925年(大正14年)まで小プロダクションで多くの西部劇に主演する[1][5]。1927年(昭和2年)に出演した Pals of the West が最後のサイレント映画であった[1]。
満52歳を迎える1930年(昭和5年)、映画界に復帰、トーキーに出演し始めるが、主演級の役どころはすでに得られなくなっていた[1]。50代後半以降も多くの映画出演を続け、ほとんどがクレジットされない端役やエキストラばかりであったが、最晩年に至るまで、およそ370作に顔を出し、生涯に出演した作品数はおよそ500作を数える[1]。
1961年(昭和36年)1月に公開されたジョージ・マーシャル監督の『嬉し泣き』が最後の出演作となり、クレジットのない出演であったが劇場主の役を演じている[1]。癌を患ったファーナムは、同年7月4日、カリフォルニア州ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズの病院で死去した[1]。満83歳没。同州同市ノース・ハリウッドにあるヴァルハラ・メモリアル・パーク墓地に眠る[6]。
すべて出演作である[1]。約500作にものぼる出演作のうち、主演俳優として活躍したサイレント時代を詳述、トーキーとなり、ノンクレジットの端役・エキストラ出演が中心となる1936年 - 1961年の時期の約370作[1]は、おもなものに留めた。
Lokasi Pengunjung: 52.15.165.240