フョードル・ミハイロヴィチ(ロシア語: Фёдор Михайлович、? - 1410年)は、15世紀初頭のミクリン公(在位:1399年 - 1410年)である。クニャージ(公)ミクリン公家、ボヤーレ(貴族)ミクリンスキー家(ru)の祖。
生涯
フョードルの生年は不明である。トヴェリ大公ミハイルと、スーズダリ公コンスタンチン(ru)の娘エヴドキヤの間に生まれた6人の中で最年少の子にあたる。フョードルに関する最初の言及は、『ニコン年代記(ru)』において、1390年ごろに、モスクワのボヤーレ、フョードル・アンドレエヴィチ・コーシュカ(ru)の娘・アンナと結婚したという記述である[1]。
1399年、父ミハイルの死亡後に、ミクリノを分領公国(ミクリン公国)として受領した。1400年、トヴェリ大公イヴァンと、カシン公ヴァシリーの、二人の兄の紛争に関与したが、フョードルに対する制裁の類は発生しなかった
[1][2]
1406年、トヴェリ大公国はモスクワ大公国と結び、リトアニア大公国と戦ったが、フョードルも他のトヴェリ諸公と共にこれに参加した[1][3]。
1410年にフョードルは死亡し、遺領はアレクサンドルとフョードルの2人の息子に相続されたが、2人の間でどのように分割相続されたかの詳細は不明である。
妻子
妻はモスクワのボヤーレの娘・アンナ(1390年結婚)。子には以下の人物がいる。
出典
- ^ a b c Экземплярский А. В. Великие и удельные князья Северной Руси в татарский период, с 1238 по 1505 г. — Т. 2: Владетельные князья владимирских и московских уделов и великие и удельные владетельные князья Суздальско-Нижегородские, Тверские и Рязанские. — С. 551—552.
- ^ Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — Т. 2. — С. 583—584.
- ^ Коган В.М., Домбровский-Шалагин В.И. Князь Рюрик и его потомки: Историко-генеалогический свод. — С. 630.
参考文献