フェデラル・リーグ(英語: Federal League)は、1913年から1915年の間、アメリカ合衆国で運営されていたプロ野球リーグ。1968年の決議により1914年、1915年の2年間の運営についてメジャーリーグとして扱われ、戦績や選手記録などがメジャー記録に含まれている。
1912年にシカゴの企業家ジョン・T・パワーズによって設立された『コロンビア・リーグ』という独立系の野球リーグがフェデラル・リーグの元となる。コロンビア・リーグ自身の運営は上手くいかず、パワーズは翌1913年に新たに6球団からなるフェデラル・リーグを設立する。しかし数ヶ月後にリーグの実権は実業家ジェームス・A・ギルモア(英語版)の手に渡る。ギルモアはフェデラル・リーグをメジャーリーグとすべく様々な手を打ち始め、球団経営に興味のある実業家の勧誘を始める。1913年8月の会合を経て、各オーナーはメジャーやマイナーリーグの選手と極秘裏に契約を結び、翌1914年にメジャーとしてのリーグが開幕する[1]。
フェデラル・リーグのペナントレースは1914年に開幕、シカゴ・フェデラルズの監督としてジョー・ティンカーが招聘されたのをはじめ、前年にメジャーリーグで活躍していた選手のうち、モーデカイ・ブラウン、ビル・マケシュニー、クロード・ヘンドリクス(英語版)、トム・シートン(英語版)らが参加、リーグはシーズン中にもメジャーリーグ在籍の選手と契約をすすめていた。当時の大投手ウォルター・ジョンソンとも一旦移籍の契約が成立したが、これはセネタース側が阻止し、ジョンソンはフェデラル・リーグで投げることはなかった。ペナントレースの方は混戦が続き、優勝争いは熾烈だったが、興行自体は当初思っていたほどの利益を上げられなかったという。
1915年に入ると、選手契約に関し横暴ともいえる圧力を加えるメジャー機構に対し、フェデラル・リーグ側がシャーマン反トラスト法(独占禁止法)違反の訴えを起こす。訴状を委ねられたケネソー・マウンテン・ランディス判事はしかし、判決まで1年の猶予を設け、2リーグ体制の変革を望まないという声明を出した。その後も両者の間で球団買収などの交渉が行われたが決裂、同年シカゴ・ホエールズがリーグ優勝を飾ると、アメリカン、ナショナル両リーグの優勝チームに対して、「三つ巴」でのワールドシリーズ開催を申し出たが、同意は得られなかった。
1915年10月8日、リーグの有力な支援者ロバート・ウォードの死をきっかけに、同年12月にメジャーリーグとフェデラル・リーグの協約が合意される。ナショナルリーグからは特使としてバーニー・ドレイファスが出席した。この協約でフェデラル・リーグ側オーナーに補償金が支払われ、セントルイス・ブラウンズとシカゴ・カブスの買収が承認される。カブスはチャールズ・ウィーグマン(英語版)とウィリアム・リグレー(英語版)らの実業家グループに譲渡された一方で、ボルチモアのオーナーが要求していたカージナルスの買収についてはメジャーリーグ側が拒否したため、オーナーは買収拒否を合意したメジャーリーグとフェデラル・リーグの両方を提訴、審理は1922年まで行われることになる。1915年12月22日に協約は正式に調印され、フェデラル・リーグは解散した。
※順位は勝率による。また一部記録は後年計算されたもの
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