1963年、南アフリカ政府は4州にそれぞれ1つずつ、合計4つの職業バレエ団を設立した[7]。その中でも、最も活動が活発であったのは、ヨハネスブルグのトランスバール舞台芸術評議会(Performing Arts Counsil of the Transvaal)から名前を採ったPACTバレエと、ケープタウンのケープ舞台芸術委員会(Cape Performing Arts Board)から名前を採ったCAPABバレエの2つであった。帰国したスパイラは、結成間もないフェイス・デ・ヴィリエ率いるPACTバレエに入団した。PACTバレエでは『白鳥の湖』、『ジゼル』、『シルヴィア』、そして『くるみ割り人形』で主役を演じたが、給与について争いが起きたためにパートナーを組む機会が多かったゲイリー・バーンと共にPACTバレエを退団した。
スパイラのレパートリーは、『レ・シルフィード』のように叙情的なものから『ロメオとジュリエット』のようにドラマチックなもの、さらには『ドン・キホーテ』のように技術的な見せ場の多いものまで、多岐に渡った。スパイラは音楽性、演劇性、そしてユーモアのセンスを持ち合わせ、まったく異なる役柄を極めて精密に解釈することができた。スパイラはド・ヴァロアの『放蕩者のなりゆき』で裏切られた婚約者役、アシュトンの『二羽の鳩』で少女役を演じ、ハンス・ブレナが演出したブルノンヴィルの『ラ・シルフィード』ではタイトル・ロールを踊っている。かつてパートナーを組んだバーンがスパイラのために振付した作品としては、ハチャトゥリアンの音楽に振り付けた『The Doves』(1966年)やハリー・パーチの音楽に振り付けた『The Birthday of the Infanta』(1971年)などがある。CAPABバレエの芸術監督であったデヴィッド・プールもスパイラのために振り付けたり、スパイラに主役を配役した。スパイラはクラシック・バレエのみならずスパニッシュ・ダンスの才能もあり、マリナ・キートがマヌエル・デ・ファリャの有名な楽曲に振り付けた『三角帽子』(1966年)やフランシスコ・ゲレーロの音楽に振り付けた『Fiesta Manchega』(1973年)に出演している。1971年にヴェロニカ・ペーパーがエルネスト・ブロッホの音楽に振り付けた『洗礼者ヨハネ(John the Baptist)』ではサロメ役を踊り、1976年にアルフレッド・ロドリゲスがチェティン・イシコズルの音楽に振り付けた『Judith』ではタイトル・ロールを演じている[9]。
スパイラは、そのキャリアにおいて常にアリシア・マルコワと比較された。ダンス誌 Dance and Dancers の編集者ピーター・ウィリアムスは、「スパイラは不思議なことにフォンテインの雰囲気を持ちながらもマルコワに似ていたが、アプローチの仕方は独自のものだった」と書いている[10]。スパイラを「葦のように細く小さく、幼い顔立ちに大きな目が目立つ」と評したニューヨーク・タイムズの記者も、やはりマルコワに例えて「古典的なラインの純粋さとスタイルの繊細さが、鋼鉄の如きテクニックと結びついている」と書いている[11]。1988年までCAPABバレエを牽引し続けたが、同年の新演出の『ジゼル』の初日に負傷してダンサーとしてのキャリアを終えた。
^Shain and Pimstone, "Phyllis Spira," Jewish Women's Archive, website, http://jwa.org. Retrieved 22 November 2015.
^David Poole, "The South African Way: Four Professional Ballet Companies Subsidized by the Government," Dance and Dancers (London), May 1969, pp. 18ff.
^Julius Eichbaum, "The CAPAB Ballet Company," Dancing Times (London) June 1994, pp. 879, 881.
^Grut, "Spira, Phyllis," in The History of Ballet in South Africa (1981), p. 413.