パンチョ・ヴラディゲロフ (Панчо Хараланов Владигеров ; Pancho Haralanov Vladigerov , 1899年 3月13日 チューリヒ - 1978年 9月8日 ソフィア )はブルガリア の作曲家 ・音楽教師・ピアニスト 。ブルガリアの作曲界の第2世代に属し、1933年 にはブルガリア現代音楽協会(ブルガリア作曲家同盟 の前身)にも創立メンバーとして名を連ねた。本格的に数々のジャンルを手懸けた作曲家の最初の一人としてブルガリア音楽史に名を遺しているだけでなく、国民楽派 的な音楽作品を確立したことや、次世代のブルガリア人作曲家の逸材を育てたことでも名高い。とりわけピアニスト のアレクシス・ワイセンベルク の恩師として知られる。
略歴
スイス において法律家の父ハララン・ヴラディゲロフと、ユダヤ系ロシア人 で著名な作家ボリス・パステルナーク の親戚であった母エリザ・パステルナークとの間に生まれるが、ブルガリアのシュメン に育つ。少年時代からピアノ 演奏と作曲を始め、10歳よりソフィアでドーブリ・フリストフ に師事して作曲の学習を始めた。1912年 に父親が急死すると、母親に連れられ双子 の兄弟ルーベン(後のヴァイオリニスト)と共にベルリン に行き、ベルリン高等音楽学校で作曲をパウル・ユオン に[ 1] 、ピアノをカール・ハインリヒ・バルト に[ 1] 師事。その後はプロイセン芸術アカデミーにてフリードリヒ・ゲルンスハイム とゲオルク・シューマン に作曲を師事し、1918年 と1920年 に2度にわたってメンデルスゾーン賞 を授与される。1920年に同アカデミーを修了すると、1935年 までマックス・ラインハルト のためにベルリン・ドイツ劇場の座付き作曲家とピアニストを務めた。その後に帰国するとソフィアのブルガリア国立音楽院の講師に招聘され、1940年 よりピアノ科教授に就任した。この音楽学校は、ヴラディゲロフの死後に遺功を讃えてヴラディゲロフ音楽院に改称されている。
ヴラディゲロフは広いジャンルにわたって創作活動を行い、歌劇 《皇帝カロヤン》(台本:ニコライ・リリエフとファニー・ポポヴァ=ムタフォヴァ[ 2] )やバレエ音楽 のほか、5つのピアノ協奏曲 や2つのヴァイオリン協奏曲 、いくつかの管弦楽曲 、ヴァイオリン とピアノのための作品ならびに編曲 、おびただしい数のピアノ独奏曲 、ピアノ伴奏歌曲 や合唱曲 、劇付随音楽 がある。また、さまざまな演奏形態のために民謡 の編曲も行なった。
パンチョ・ヴラディゲロフの作品は、ウィーン のウニヴェルザール出版社 による出版譜や、ドイツ・グラモフォン 社による録音を通じて世界的に知られるようになり、欧州 や米国 で上演されるようになった。1969年 にはヘルダー賞 を受賞している。シュメンで開かれるピアニストやヴァイオリニストのための音楽コンクールは、ヴラディゲロフの名を冠している。ブルガリア狂詩曲《ヴァルダル》などの作品は、ブルガリア音楽の分水嶺と看做されている。
ソフィアの自宅は改装され、ソフィア博物館 となった。息子のアレクサンダル (1933–1993)と孫のパンチョ2世 、アレクサンダル2世 (Alexander Wladigeroff, 同名の父親と異なる綴りを用いている)ならびにコンスタンチン はそれぞれ一目置かれる音楽家となり、パンチョ2世はパンチョ・ヴラディゲロフ知的財産基金(The Intellectual Legacy of Pancho Vladigerov Foundation )を設立した。
マルク=アンドレ・アムラン もヴラディゲロフ作品をレパートリーに入れている。
INTERNATIONAL COMPETITION "YOUNG VIRTUOSOS"
パンチョ・ヴラディゲロフ国際作曲コンクールがスタートしている[ 3] 。
参考文献
脚注
外部リンク