パルモア学院専門学校(パルモアがくいんせんもんがっこう、Palmore Institute)は、日本の専門学校。設置者は準学校法人パルモア学院(法人所在地 兵庫県三田市けやき台4丁目30番地6[1])。関西学院・啓明学院の母体であり[2][3][4]、パルモア病院を設立した[5]。1886年に設立され、2020年に閉校を決定した[6](再開の予定なし[7])。
概要
1886年にアメリカ南メソヂスト監督教会の宣教師ジェームス・ウィリアム・ランバス一家によって神戸外国人居留地47番に開設された英語塾「読書館」が起源[8]。学校名は、読書館の活動を経済的に支援したアメリカミズーリ州の宣教師ウイリアム・ビバリー・パルモアに由来する[8][9]。
1887年8月に神戸外国人居留地から山二番(後の神戸市中央区北長狭通)へ移転し、ジェームス・ウィリアム・ランバスによる英語の夜間授業が行われた[10]。翌1888年9月にN・W・アトレーが昼間部を作り[11]、1889年にジェームスの子ウォルター・ラッセル・ランバスが昼間部を母体として関西学院を設立した[12]。発足当初のパルモア学院は所在地を転々とし、授業を行う場所が定まらず、メソヂスト教会の年会において毎年廃止が検討され、一度は廃止が決定されたが、ジェームスの妻メアリーの働きかけにより存続した[13]。
1910年に宣教師ジェイムズ・サミュエル・オックスフォードが赴任すると、実用英語科、速記科、タイプライター科を設置するなど実業教育を展開し[8]、実践的英語教育の担い手として戦前期の阪神間で名を轟かせ[14]、「関西一の英語専門夜学校」と呼ばれた[15]。太平洋戦争中は事実上活動を休止するが、戦後専門学校としての活動を再開[8]。本格的な英語教育をする場として一世を風靡し[16]、3000人を超える生徒が在籍した[17]。戦前から戦後にかけては厳しい教育で知られ[14][18]、卒業できる生徒は戦前期で3%強[14]、戦後は1割ほどであった[18]。
1956年、学院長の石井卓爾が学内に反対意見のある中[19]、義弟の医師三宅廉を病院長に据え[5]、設立資金全額をパルモア学院と学院の宣教師・職員・生徒からの寄付金で賄い、さらにパルモア学院所有の土地を無償貸与する形でパルモア病院(医療法人財団パルモア病院)を設立した[20]。後に学院と病院は断絶し[21]、金銭や土地を巡って法的紛争を展開した[22]。学院は病院と関係する大手都市銀行とも係争し[23]、存続の危機に陥ったが卒業生新山尭夫の下[16]経営危機を克服[8]した。一方病院は訴訟に伴う不動産評価替えなどが原因となって赤字に転じ[22]、2013年に民事再生法の適用を申請した[24](2014年に医療法人社団純心会パルモア病院として再生[25])。
2020年7月、休校を発表[7]。同年8月、姉妹校関西学院の経営計画書において「2020年度末の閉校」が明記された[26]。同年12月に閉校を決定[6]。再開の予定はなく[7]。運営法人は2021年春以降に解散する[6]。最後の約10年間は年間数千万円の赤字を計上し、最終年度の専門学校生徒数は1名であった[6]。
沿革
関係者
学院長
理事長
専門学校長
理事
評議員
職員
教師
卒業生・在籍生
卒業生
在籍生
姉妹校・関係機関
脚注
関連項目
外部リンク