ジャコバイトの多いスコットランドなどではチャールズの人気が根強く、「いとしのチャールズ王子」(Bonnie Prince Charlie)と呼ばれて愛された。チャールズは再三ブリテン島上陸を試みるが、スコットランドの支持勢力との息があわず、時にはジャコバイトを見殺しにする結果になることもあった。1745年のジャコバイト蜂起でチャールズは念願のブリテン上陸をはたし、政府軍を破ったが、カロデンの戦いでカンバーランド公ウィリアム・オーガスタスに惨敗し、変装して大陸に逃げ帰るしかなかった。
^1836年4月27日に56歳で没したという説はチャールズ=エドワード・ステュアートの血縁を自称しているポーランドの美術史家ピオトル(ピーター)=ジェームズ・ピニンスキが唱えている説。これに対して、系図学者マリ=ルイーズ・バックハーストは'The death of Victoire Adelaide Roehenstart', in "The Stewarts" (The Stewart Society, Edinburgh, 2023), vol. 26, no. 4, pages 307-311.の中で、ヴィクトワール=アデライード・ロアンスタールが最終的に1871年3月にフランスのニースで亡くなった事を述べている。バックハーストの説に従うならば没年齢は91歳で、弟チャールズの没年と没年齢(1854年、70歳没)を優に超え、シャーロットとフェルディナンの子供達の中で最も長命で、結果的にフェルディナンとシャーロット、チャールズ・エドワード・ステュアート、その父ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート最後の直系の血縁者で、ジャコバイト王位請求者の家系は1807年のヘンリー・ベネディクト・ステュアート(ジェームズ・フランシスの次男で、チャールズ・エドワードの弟)の死で男系は絶えている事は確実である為、女系でも絶えた事になる。
^系図学者マリ=ルイーズ・バックハーストは "The marriages of the granddaughter of Bonnie Prince Charlie", in Genealogists' Magazine: Journal of the Society of Genealogists, vol. 31, no. 2 (June 2013) pages 45–49, and "The lives of the granddaughter and great-grandson of Bonnie Prince Charlie: new evidence", vol. 33, no. 11 (September 2021) pages 403-410.の中で、ヴィクトワール=アデライードと呼ばれていたシャーロットの次女が、1804年11月14日にパリのサン=ロック教会でナポレオンに仕える軍医ピエール=ジョゼフ=マリ・ド・サン=ユルサンと最初に結婚したという証拠を提供している。結婚記録には、マクシミリアン・ロアンスタールと彼の妻クレマンティーヌ・ルヴァンの娘であるヴィクトワール=アデライード・ロアンスタールとあり、弟チャールズと同じ両親の記録であることに言及している。
^P. Pininski, Ostatni sekret Stuartów. Dzieci Karoliny księżnej Albany, 2001.
^Peter Piniński,Bonnie Prince Charlie: A Life(2010)
^P.Piniński, Dziedzic Sobieskieh. Bohater ostatniej wojiy niepodległość Szkocji(2013)
^ロイヤル・ステュアート協会の元会長エヴリン・クルックシャンクス(1926年12月1日 - 2021年11月14日。イギリスの歴史学者。17世紀と18世紀のイギリス政治史を専門とする)は2002年4月13日(当時は会長)のBBCニュースの記事の中でピオトル(ピーター)=ジェームズ・ピニンスキが「The Stuarts' Last Secret」の中で示した証拠を「本物」であると述べ、擁護している。一方、イギリスのジャーナリストで系図学者のヒュー・マッシングバードは "A More Than Likely Story". The Spectator: 48–49.(25 May 2002)で、「入念に研究された...確かに最も懐疑的な衒学者の満足の証拠」と述べている。
^系図学者マリ=ルイーズ・バックハーストはFurther research on Theodore Marie de Saint Ursin, the great grandson of Bonnie Prince Charlie", vol. 34, no. 5 (March 2023) page 235.の中で、テオドールが1828年にフランスのイシー=レ=ムリノーにある聖シュルピス神学校に入学して同年に助祭に叙階されたこと、1832年までパリに住み、1838年8月6日にタルヌ県のカストルで29歳で助祭のまま、死去したことに言及している。