チャールズ・エドワード・オーガスタス・マクシミリアン・ステュアート(Charles Edward Augustus Maximilian Stuart, Baron Korff, Count Roehenstart, 1784年5月頃 - 1854年10月28日)は、ジャコバイト王位請求者チャールズ・エドワード・ステュアートの非嫡出の外孫に当たる人物。
ステュアート家断絶後、ジャコバイト王位継承者として扱われることを望んだ。認知されていない非嫡出子だったにもかかわらず、両親の家名ロアン家(Rohan)とステュアート家(Stuart)とを組み合わせたロアンスタール伯爵(Count Roehenstart)を名乗ったため、当時の上流社会を当惑させた。ロシアの陸軍中佐の肩書を持つに過ぎなかったが、一部の人々から「将軍("General" Charles Edward Stuart)」と呼ばれており、彼の墓石にもそのように刻まれている[1][2]。
ロアンスタールは、1800年にロシア帝国陸軍の砲兵士官に任官し、1803年まで昇進し続けたと主張した。1804年8月8日、彼は次姉シャルロットとジャン=ルイ・ド・ラ・モリエール(Jean-Louis de la Morliere)のパリでの結婚式において、結婚の証人として署名している。ロアンスタールは1806年までに、陸軍中佐の肩書を得てから退役し、白ロシア地方総督アレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルク公爵の家政機関で働いていた。この時期、ロアンスタールはサンクトペテルブルクで皇后エリザヴェータ・アレクセーエヴナに紹介され、皇后に強い印象を与えた。1811年、ロアンスタールは女子相続人のマリアンナ・フルコ(Marianna Hurko)と婚約する。ところが彼女の姉妹で別の男と婚約していたエヴェリーナ・フルコ(Evelina Hurko)と男女の関係になってしまう。不運にも、同時期に資産運用を任せていた銀行家ソフニェフが投機に失敗し、5000ルーブリしか手元に戻らないことを知らされる。破産と不品行に腹を立てた雇用主ヴュルテンベルク公爵から逃れるため、彼はクロンシュタット発の船でロシアを出国し、1811年11月までにイギリスの首都ロンドンに到着した。彼はそこからさらに北アメリカに渡った。トマス・クーツの元事業パートナーで、自身の銀行倒産後に北米に逃れたジョン・フォーブスから、ロアンスタールが法的に請求できると考える債権を回収するためだった[4]。彼は1811年から1813年までフィラデルフィアに住んだ[5]。ロアンスタールは1814年までアメリカ合衆国に留まっていた。
^'Kidlington: Manors and other estates', in A History of the County of Oxford, volume 12: Wootton Hundred (South) including Woodstock (1990), pp. 188-194, accessed 20 March 2011
^Susan Maclean Kybert, Bonnie Prince Charlie: A Biography (London: 1988), p. 313
^Gerald Warner, Tales of the Scottish Highlands (1982), pp. 100–101
^W. Frost. 'Recent Studies in the Restoration and Eighteenth Century', in SEL: Studies in English Literature 1500–1900 (vol. 2, no. 3, Summer, 1962), pp. 359–384
^Francis John Angus Skeet, The life and letters of H. R. H. Charlotte Stuart: duchess of Albany, only child of Charles III, king of Great Britain, Scotland, France and Ireland (1932), p. 160