第6代サンドウィッチ伯爵 ジョージ・ジョン・モンタギュー (英語 : George John Montagu, 6th Earl of Sandwich 、1773年 2月4日 – 1818年 5月21日 )は、イギリス の貴族、政治家。1792年から1814年までヒンチンブルック子爵 の儀礼称号 を使用した[ 1] 。1794年から1814年まで庶民院 議員を務めた[ 1] 。
生涯
第5代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギュー と2人目の妻メアリー(Mary 、旧姓ポーレット(Powlett )、1753年10月 – 1779年3月30日、第6代ボルトン公爵ハリー・ポーレット (英語版 ) の娘)の息子として、1773年2月4日に生まれ、3月5日にセント・メリルボーン教区教会 (英語版 ) で洗礼を受けた[ 1] 。1780年から1790年までイートン・カレッジ で教育を受けた後[ 2] 、1790年6月23日にケンブリッジ大学 トリニティ・カレッジ に入学、1792年にM.A. の学位を修得した[ 3] 。
1790年に異母兄ジョン・ジョージ が死去したときも、1792年に祖父が死去して父が爵位を継承したときも未成年であり、ハンティンドンシャー選挙区 (英語版 ) の補欠選挙に出馬できず、ジョン・ジョージ、父、ランスロット・ブラウン(Lancelot Brown 、サンドウィッチ伯爵の子分で、ヒンチンブルック子爵が成人するまでの中つなぎとして出馬した人物)が順番に議員に就任した[ 2] [ 4] 。第2代スペンサー伯爵ジョージ・ジョン・スペンサー が評したところでは、カウンティ選挙区がまるで懐中選挙区 のように扱われた[ 4] 。ヒンチンブルック子爵が成人した後、ブラウンが議員を辞任して議席を譲ろうとするが、補欠選挙では立候補を検討する人物が続出した[ 4] 。まず、ハンティンドンシャー の有力家系であるマンチェスター公爵 家の当主の5代公爵ウィリアム・モンタギュー (英語版 ) が未成年だったため、第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル (英語版 ) が代わって公爵家の影響力を行使したが、ベッドフォード公爵は自身の弟にあたるジョン・ラッセル卿 (のちの第6代ベッドフォード公爵 )を出馬させようと検討した(のちに断念)[ 4] 。また、初代カリスフォート伯爵ジョン・ジョシュア・プロビー も立候補を検討したが、スタンフォード選挙区 (英語版 ) の議席があったため立候補しなかった[ 4] 。1796年イギリス総選挙 ではサンドウィッチ伯爵家の候補としてヒンチンブルック子爵が、マンチェスター公爵家の候補としてフレデリック・モンタギュー卿 (英語版 ) が当選して、両モンタギュー家が議席を独占した[ 4] 。カリスフォート伯爵の不満はくすぶり、1802年イギリス総選挙 では1802年6月に『タイムズ 』紙が対立候補の(カリスフォート伯爵からの支持を受けての)出馬を報じたが、結局選挙戦は起こらなかった[ 4] 。
両モンタギュー家の協力は1806年イギリス総選挙 で破られた[ 4] 。まずフレデリック・モンタギュー卿が健康上の理由により不出馬を表明したが、マンチェスター公爵はハンティンドン選挙区 (英語版 ) の現職議員ウィリアム・ヘンリー・フェローズ (英語版 ) の出馬を支持したが、サンドウィッチ伯爵はカリスフォート伯爵の息子にあたるプロビー卿ジョン・プロビー (英語版 ) を支持した[ 4] 。このときはフェローズが立候補を取り下げ、ヒンチンブルック子爵とプロビー卿が当選する形で決着したが、1807年イギリス総選挙 では選挙戦がたたかわれた[ 4] 。しかし選挙戦は主にフェローズとプロビー卿の間でたたかわれ、ヒンチンブルック子爵は751票でトップ当選した[ 4] 。1812年イギリス総選挙 では初代準男爵サー・ジョージ・ウィリアム・リーズ が両モンタギュー家による議席支配の打破を銘打って出馬したが、結局選挙の前日に撤退した[ 4] 。また、1811年8月にはトットネス選挙区 (英語版 ) での出馬が検討されたが、実現しなかった[ 5] 。
1814年6月6日に父が死去すると、サンドウィッチ伯爵 位を継承した[ 1] 。20年間にわたる庶民院 議員の在任期間に演説した記録はなく、登院もまばらだったが、第1次小ピット内閣 期(1783年 – 1801年)では1798年1月に小ピット の査定課税法案に賛成、以降もアディントン内閣 (1801年 – 1804年)、第2次小ピット内閣 (1804年 – 1806年)を支持した[ 2] 。アミアンの和約 の後、1802年にフランスを訪れた[ 2] 。挙国人材内閣 (英語版 ) (1806年 – 1807年)に対し反対の立場にあり、1807年以降は第2次ポートランド公爵内閣 (1807年 – 1809年)、パーシヴァル内閣 (1809年 – 1812年)、リヴァプール伯爵内閣 (1812年 – 1827年)を支持した[ 2] 。
爵位継承に伴う補欠選挙では第5代アボイン伯爵ジョージ・ゴードン が息子のストラサヴォン卿チャールズ・ゴードン (英語版 ) を立候補させようとしたが、カリスフォート伯爵が新しい家系をカウンティ選挙区に導入しない意向を示し、サンドウィッチ伯爵もこれに同意したため、カリスフォート伯爵の息子プロビー卿が当選した[ 4] 。
1794年にハンティンドンシャー民兵隊副隊長(中佐)に任命され[ 2] 、1808年9月24日に副指揮官(lieutenant colonel commandment )に任命された[ 6] 。また、1803年10月13日にハンティンドンシャー志願兵連隊(Huntingdonshire Volunteers )隊長に任命された[ 7] 。
1818年5月21日、結核 によりイタリアで死去、息子ジョン・ウィリアム が爵位を継承した[ 1] [ 2] 。
家族
サンドウィッチ伯爵夫人ルイーザ (英語版 ) 。トーマス・ローレンス 画、1804年ごろ。
1804年7月9日、メアリー・アン・ジュリア・ルイーザ・ハリエット・ロリー=コリー (英語版 ) (1781年4月3日 – 1862年4月19日、初代ベルモア伯爵アーマー・ロリー=コリー (英語版 ) と2人目の妻ハリエット (英語版 ) の娘)と結婚[ 1] 、1男2女をもうけた[ 8] 。
出典
^ a b c d e f g Cokayne, George Edward , ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 53.
^ a b c d e f g Thorne, R. G. (1986). "MONTAGU, George John, Visct. Hinchingbrooke (1773-1818)." . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年1月27日閲覧 。
^ "Montagu, the Hon. George [John]. (MNTG790GJ)" . A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
^ a b c d e f g h i j k l m Thorne, R. G. (1986). "Huntingdonshire" . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年1月27日閲覧 。
^ Fisher, David R. (1986). "Totnes" . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2022年1月27日閲覧 。
^ "No. 16247" . The London Gazette (英語). 15 April 1809. p. 522.
^ "No. 15629" . The London Gazette (英語). 11 October 1803. p. 1397.
^ a b c Lodge, Edmund (1872). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語) (41st ed.). London: Hurst and Blackett. p. 502.
^ Lodge, Edmund (1907). The Peerage of the British Empire as at Present Existing (英語). Vol. 2 (76th ed.). London: Hurst and Blackett. p. 1572.
外部リンク