第17代クロフォード伯爵 および初代リンジー伯爵 ジョン・リンジー (英語 : John Lindsay, 17th Earl of Crawford PC FRS 、1596年 - 1678年 )は、清教徒革命 (イングランド内戦 ・スコットランド内戦 (英語版 ) )期のスコットランド貴族 。
生涯
第9代リンジー卿ロバート・リンジー (英語版 ) とクリスチャン・ハミルトン(Christian Hamilton 、初代ハディントン伯爵トマス・ハミルトン (英語版 ) の娘)の息子として、1596年に生まれた[ 6] 。1616年7月9日に父からリンジー卿の爵位を継承[ 6] 、10月1日に父の相続人として正式に認定された[ 7] 。
1633年5月8日、イングランド・スコットランド・アイルランド国王チャールズ1世 がスコットランドを訪問したときにスコットランド貴族 であるパーブロース卿 とリンジー伯爵 に叙されたが[ 6] 、チャールズ1世の政策に反対したため、爵位創設の特許状は1641年まで発行されなかった[ 7] 。リンジーが反対した政策とは宗教政策のことであり、彼はカヴェナンター の指導者の1人として、1637年にチャールズ1世が聖公会祈祷書 をスコットランドにも施行させようとしたときに猛反対したことで知られる[ 7] 。1638年には第3代ヒューム伯爵ジェイムズ・ヒューム (英語版 ) とともに国王に抗議した[ 7] 。主教戦争 後の1641年に再びスコットランドを訪問したチャールズ1世に対し、和解を勧めた[ 7] 。この結果としてチャールズ1世は譲歩、リンジーもリンジー伯爵位創設の特許状を1633年付で発行された[ 7] 。同年にスコットランド枢密院 (英語版 ) の枢密顧問官に任命され、スコットランド大蔵卿の1人を務めた[ 6] 。同1641年から1649年までと1661年から1664年までスコットランド民事控訴院 (英語版 ) 特別判事(Extraordinary Lord of Session )を務めた[ 6] 。
1643年に初代リーヴェン伯爵アレクサンダー・レズリー とともにイングランドに向かい、1644年7月2日のマーストン・ムーアの戦い で戦功を挙げた[ 7] 。また、遠戚の第16代クロフォード伯爵ルドヴィック・リンジー が1642年1月にクロフォード伯爵位を返上して再叙爵され、これによりリンジー伯爵が推定相続人になった[ 6] 。さらに1644年7月25日には第16代クロフォード伯爵の爵位が剥奪され、代わりにリンジーに与えられた[ 7] 。これをスコットランド王国議会の越権行為であるとする見解もあるが、チャールズ1世は1646年にリンジーの爵位継承を承認した[ 6] 。
1645年にはウィリアム・ベイリー (英語版 ) 将軍に初代モントローズ侯爵ジェイムズ・グラハム への攻撃を命じた委員会の一員を務めた[ 7] 。また、パース やローランド地方 の守備としてニュータイル (英語版 ) に配置された予備軍の指揮を執った[ 7] 。モントローズは南下してリンジーを攻撃しようとしたが、その守備の固さをみるとハイランド地方 に引き返した[ 7] 。その後、リンジーはベイリーと合流して、ベイリーのベテラン兵士1,000名を自軍の新入り兵士1,000名と交換したのちアンガス に戻り、続いてアソル (英語版 ) に進軍して荒らし回った[ 7] 。一方のベイリーはアルフォードの戦い (英語版 ) で敗北したのちクロフォードと合流、クロフォードら委員会の成員はベイリーと次の行動について討議したが、結局ベイリーの助言に反してキルシスの戦い で会戦に挑むことになり、予想通りに大敗に終わった[ 7] 。リンジー自身はベリック・アポン・ツイード に逃走した[ 7] 。
1646年にチャールズ1世がニューアーク=オン=トレント でスコットランドに降伏すると、クロフォードはスコットランド王国議会議長としてチャールズ1世の身柄をイングランドに引き渡す令状に署名したが、彼自身は身柄引き渡しに反対した[ 7] 。チャールズ1世がキャリスブルック城 (英語版 ) に投獄された後は初代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン とともにチャールズ1世の救出を試みたが失敗した[ 7] 。また、初代アーガイル侯爵アーチボルド・キャンベル との関係が悪化して決闘になり、日付も1648年3月25日に定められたが、結局アーガイル侯爵側が身を引いたため決闘は行われなかった[ 7] 。そして、プレストンの戦い でハミルトン公爵率いる王党派軍勢が敗北すると、アーガイル侯爵らカヴェナンター急進派が復権、Act of Classes が可決されてリンジーは全ての官職を失った[ 7] 。リンジーはオランダ に逃亡しようとしたもののイーリー (英語版 ) で逮捕され自宅に戻された(ただし、起訴などはなされなかった[ 7] )。
1650年のダンバーの戦い でカヴェナンター急進派の軍勢がオリヴァー・クロムウェル に敗れると、リンジーら穏健派が復権、1651年1月1日にはチャールズ2世 がスクーン で戴冠した[ 7] 。チャールズ2世は続いてイングランドに進軍、リンジーもリーヴェン伯爵の部下として従軍したが、8月28日にエイリス (英語版 ) でジョージ・マンク の騎兵隊の奇襲を受けて捕虜にされ、ロンドン に連行されてロンドン塔 、続いてサンダウン城 (英語版 ) に投獄され、1656年11月28日にウィンザー城 に移された[ 7] 。また、1654年5月5日に財産没収を宣告されたが、その一部が妻と息子に与えられた[ 7] 。
1660年のイングランド王政復古 に伴い同年3月3日に釈放され、12月にエディンバラ に入城して歓迎を受けた[ 7] 。また、全ての官職に復帰、1661年1月19日にスコットランド大蔵卿 (英語版 ) を終身職として任命された[ 7] 。しかし、カヴェナンター であることを堅持して厳粛な同盟と契約 の放棄宣言を拒否したため、1663年に再び辞任を余儀なくされ、政界から引退して自領に引退した[ 7] 。スコットランド大蔵卿は娘婿の第7代ロシズ伯爵ジョン・ロシズ (英語版 ) が後を継いだ[ 6] 。
1663年5月20日、王立協会フェロー (原加盟フェロー(Original Fellow )として)に選出された[ 8] 。
1678年にタイニンガム (英語版 ) で死去、息子ウィリアム が爵位を継承した[ 6] 。
家族
1630年頃、マーガレット・ハミルトン(Margaret Hamilton 、1666年以降没、第2代ハミルトン侯爵ジェイムズ・ハミルトン の娘)と結婚[ 6] 、5男5女をもうけた[ 9] 。
出典
^ Burke's Peerage, Baronetage and Knightage, 107th edition, vol. 1, ed. Charles Mosley, Burke's Peerage Ltd, 2003, p. 120
^ Burke's Landed Gentry 19th edition, vol 1- The Kingdom of Scotland, ed. Peter Beauclerk Dewar, Burke's Peerage Ltd, 2001, p. 884
^ Cockburn: Thomas H. Cockburn-Hood, The House of Cockburn of That Ilk and the Cadets Thereof… (Edinburgh, 1888), p. 151 and 152
^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Cockburn, Henry Thomas" . Encyclopædia Britannica. Vol. 6 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 624–625.
^ Charles Mosley, editor, Burke's Peerage, Baronetage & Knightage, 107th edition, 3 volumes (Wilmington, Delaware, U.S.A.: Burke's Peerage (Genealogical Books) Ltd, 2003), volume 2, page 2342
^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 517–520.
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y Henderson, Thomas Finlayson (1893). "Lindsay, John (1596-1678)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co . pp. 304–305.
^ "Crawford-Lindsay; John (1596 - 1678); 17th Earl of Crawford" . Record (英語). The Royal Society . 2020年7月6日閲覧 。
^ "Crawford, Earl of (S, 1398)" . Cracroft's Peerage (英語). 22 March 2005. 2020年7月6日閲覧 。