第3代レーデ侯爵(英語版)ジャン=フランソワ=ニコラ・ド・ベット(フランス語: Jean-François-Nicolas de Bette, 3e marquis de Lède、1672年12月6日 レーデ(英語版) - 1725年1月11日 マドリード)は、スペイン領ネーデルラント出身の軍人。スペインのグランデに叙され、シチリア副王を務めたほか、四国同盟戦争に参戦したことで知られる。
生涯
スペイン継承戦争
レーデ城(英語版)で生まれた[1]。早くから軍人の道を歩み、歩兵総監(inspecteur général de l’infanterie)に昇進した[1]。スペイン王カルロス2世が遺言でフランス王国のアンジュー公フィリップ(後のスペイン王フェリペ5世)を後継者に指名したときはそれを支持した[1]。1703年のエケレンの戦いと1706年のラミイの戦いに参戦した後、フェリペ5世と合流、1714年にマヨルカ島に遠征(スペイン語版)した[1]。
四国同盟戦争
1717年、レーデ侯爵は軍勢3万を率いてシチリア島に遠征、占領に成功した[1]。このとき、シチリア島はフェリペ5世のほか、神聖ローマ皇帝カール6世、サヴォイア公兼シチリア王ヴィットーリオ・アメデーオ2世が請求していたため、シチリア島にはレーデ侯爵率いるスペイン軍、クロード・フロリモン・ド・メルシー伯爵率いるハプスブルク軍、アンニバレ・マッフェイ(イタリア語版)伯爵率いるサヴォイア軍が同時に存在することとなった[1]。レーデ侯爵はワロン人衛兵の助力も借りて、カステッロ・ア・マレ(英語版)、メッシーナなどを相次いで占領した後、1719年のフランカヴィッラの戦いでハプスブルク軍を撃破した[1]。レーデ侯爵はその後も善戦したが、結局1720年のハーグ条約でシチリア王国がカール6世に帰属し、その死後はスペイン王が継承すると定められた[1]。
晩年
戦後、レーデ侯爵は帰国したものの、すぐにフェリペ5世によって北アフリカに派遣され、長年続いてきたセウタ包囲戦(英語版)を戦い、モロッコ軍を完全に駆逐した[1]。マドリードに帰還した後、レーデ侯爵はこの功績によりスペイン最高戦争会議(スペイン語版)の議長に任命された。1725年、マドリードで死去した[1]。
脚注