アカディア人の多くがヴィユジュィンと共に降伏したが、およそ1,250人(30パーセント)のアカディア人は降伏しなかった[14]。後者のうちの多数がサンジャン島を逃げ出した。フランス人とアカディア人とで4隻のスクーナーを準備して、島から逃げ出すアカディア人を輸送できるようにした[15]。スクーナーのうち1隻は6門艦で、いずれもマルペク(現在のプリンスエドワード島マルペク湾)に横付けされた。ラ・ジョイ砦からのマルペクの距離は、イギリスの巡視船が近づけない場所にあった[16]。アカディア人たちはどうにか島を離れて、シャルル・デシャン・ド・ボワシェール・エ・ド・ラフェトの難民キャンプにたどり着いた。このキャンプは現在のニューブランズウィック州ミラミチの地近くの、ボーベアル(ボーベアーズ)島にあり、「キャン・ド・レスペランス」(Camp de l’Esperance)として知られていた。アカディア人たちはまた、シャリュー湾やレスティグーシュ川にもたどり着いた[17][18][19][20]。レスティグーシュ川のプチ=ロシェル(現在のケベック州ポワント・ア・ラクロワ)に、ジャン=フランソワ・ブルドン・ド・ドンブールがやはり難民キャンプを準備していた[21][22][23]。アカディア人のジョゼフ・ルブランは、ル・メグレとピエールとジョゼフのゴーティエ兄弟が、上記のアカディア人たちを逃がすのに、重要な役割を演じたと語った[24]。この逃亡には、ミクマク族も力を貸していた[25]。
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