ゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande, 1872年9月6日 - 1914年8月5日)は、ドイツ出身の建築家。日本で設計事務所を開き、風見鶏の館をはじめとする作品を残した。日本にユーゲント・シュティールと呼ばれる建築様式をもたらしたとされる[1]。
ゲオルク・デ・ラランデ、ゲオルグ・デ・ラ・ランデ、ゲオルク・ド・ラランド、ゲオルグ・ド・ラロンド、ゲー・デラランデ、ゲオログ・デラランデ、ゲー・ヅラランなどとも表記される。
略歴
1872年9月6日、ドイツ帝国を構成するプロイセン王国ヒルシュベルク(現:ポーランド領イェレニャ・グラ)で、建設工事業を営むオイゲン・デ・ラランデ(Eugen de Lalande)の長男として生まれる[2]。ユダヤ系とされる[3]。父親は高等教育を受けてないが建設業で成功した中産階級で、家庭は裕福だった[4]。1894年シャルロッテンブルク工科大学(後のベルリン工科大学)を卒業し、ブレスラウ(現:ポーランド領ヴロツワフ)、グローガウ(現:ポーランド領グウォグフ)、ウイーン、ベルリンで働いたのち、1901年から2年間上海、天津で仕事をした[5][4]。
元同僚のドイツ人建築家リヒャルト・ゼールの招きで1903年に横浜へ渡った同年、ゼールがドイツへ帰国したため、建築設計事務所をそのまま引き継いだ。デ・ラランデは横浜だけでなく東京、京都、大阪、神戸、朝鮮など日本領内の各地を巡り仕事をした。ドイツ世紀末の様式であるユーゲント・シュティールの高田商会などでも知られる[6]。神戸で17歳のユダヤ系ドイツ人女性エディ(Edith Giesecke、1887-1967)と出会い、翌1905年に結婚[4]。
1913年、母国プロイセンより、ロイヤル・アーキテクトの名誉称号を贈られた[7]。
朝鮮総督府の仕事のため京城(現:ソウル)へ出張中に肺炎で倒れ、内地に戻って、1914年8月5日に東京で亡くなった。当時のドイツ語週刊新聞に掲載された死亡広告によれば、死因は肺炎である[8]。なお、死因については、第一次世界大戦が勃発したことで租借地防衛のため青島へ渡るかどうか悩み、酒に溺れたため[9]、あるいは「(日独)両国の対立に悩み、心労が重なって、心臓にショックを起こした」ため[10]とも言われる。ラランドの子孫によると、アルコールの問題と鬱病を抱えていたという[11]。
妻エディータ(略称エディ、エヂ。旧姓ピチュケ)はデ・ラランデの死後、5人(一男四女)の子どもを連れてドイツに帰国したが、後に外交官・東郷茂徳(後の外務大臣)と再婚した。子供たちはドイツに残り、4人の娘たちは末っ子を除いてそれぞれ結婚し、次女のユキは心理学者のKurt Gottschaldtの妻となった[11]。生まれつき精神障害があった長男は、父親のように日本で建築家として働く夢を持っていたが叶わず大工になった[11]。1930年代には精神病により入院し、1943年に若くして亡くなったが、その死はナチが行なった精神病者らの安楽死政策によるものではないかと言われている[11]。
作品
神戸のトーマス邸・旧ロシア領事館 (函館市)と出身地(現・ポーランド)にあるもの以外は現存せず。
ポーランドに残る多数の作品群
デ・ラランデの出身地であるイェレニャ・グラには、デ・ラランデ事務所が設計した建物が、約40棟現存していることが、日本人研究者、広瀬毅彦によって発見されている。自宅だけで3棟乃至4棟あり、銀行建築、ホテル、アパート、ビラ等、多岐にわたっており、竣工当時の絵葉書や設計図とともに近年発掘された。なかには、日本に於ける彼の異人館建築のプロトタイプとみられる邸宅建築や、高田商会に似た外観の銀行建築なども含まれている。
とりわけ印象的なのは、来日前の1898年築作品、デ・ラランデ邸(「すずらんの家」、現存)で、外壁面にすずらんの花柄模様をあしらった、その後のユーゲントシュティール作家としての萌芽を予感させる作品となっている[17]。
なお、デ・ラランデ本人は、存命中、日本語表記の際には、「デ・ラランデ」ではなく、「・」(中黒)なしの、「デラランデ」という表記を、電話帳や設計図のスタンプに使用していた[18]。また、江戸東京たてもの園にデ・ラランデ邸として復元されたものは、東京信濃町に居住していたときの家でラランデの設計ではないが、たてもの園では増築部分はラランデ作と見ている。
参考文献
- 藤森照信、『建築探偵の冒険 東京編』、筑摩書房、1986年(現在は、ちくま文庫より刊行)
- 堀勇良、『日本の美術447 外国人建築家の系譜』、至文堂、2003年
- 坂本勝比古、「第三章 居留地の街並みと建築 1868-1941」神戸外国人居留地研究会(編) 編『神戸と居留地 多文化共生都市の原像』神戸新聞総合出版センター、2005年。ISBN 4-343-00315-9。
- 広瀬毅彦、『風見鶏謎解きの旅』、神戸新聞総合出版センター、2009年
- 青木祐介、「建築家デ・ラランデと横浜」『横浜都市発展記念館紀要』No.7 、2011年
- 広瀬毅彦、『~没後百周年記念~ 既視感の街へ ロイヤルアーキテクト ゲオログ・デラランデ新発見作品集』、ウインターワークス(洋書)、2012年、http://tairyudo.com/tukan6bo8800/tukan9524.htm
関連項目
脚注
- ^ 堀勇良、『日本の美術447 外国人建築家の系譜』、2003年
- ^ 広瀬毅彦、『~没後百周年記念~ 既視感の街へ ロイヤルアーキテクト ゲオログ・デラランデ新発見作品集』、新たに発見された洗礼簿による、p49、2012年
- ^ Albert Axell, Hideaki Kase Kamikaze: Japan's Suicide Gods p.24, Longman, 2002
- ^ a b c Lalande, de Georg Karl Adolph Guido ラランド・ゲオルグ・ド (1872-1914), Architekt & Königlich-Preußischen Baurat 建築家日独交流ポータルサイト「Das japanische Gedächtnis - 日本の想い、ドイツの想い」
- ^ Shunjirou Kurita,『The Who's Who in Japan』、第三版(1914年版),1914年
- ^ 堀勇良、 前掲書
- ^ 広瀬毅彦、前掲書、p439
- ^ 広瀬毅彦、前掲書、p445
- ^ 藤森照信、「西洋館は国電歩いて3分」、『建築探偵の冒険』、文庫版p281、初版は1986年刊行
- ^ 妻エディータの再婚後の孫にあたる東郷茂彦による。東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』、p78、1993年
- ^ a b c d Tôgô, Edith 東郷・エディータ , geb. Giesecke (Pitschke), verw. de Lalande ( 3.2.1887-4.11.1967)日独交流ポータルサイト「Das japanische Gedächtnis - 日本の想い、ドイツの想い」
- ^ 広瀬毅彦、前掲書、pp98-103
- ^ “新規復元建造物「デ・ラランデ邸」の公開について (江戸東京たてもの園)” (PDF). 生活文化局 公益財団法人東京都歴史文化財団 江戸東京たてもの園 (2013年3月7日). 2013年10月5日閲覧。
- ^ 『産経新聞』2012年10月9日
- ^ 広瀬毅彦、前掲書
- ^ 日本統治時代に設置された駅舎『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』水間政憲, PHP研究所, 2013, p127-p130
- ^ 広瀬毅彦、「第三章 ポーランドで発見したデラランデ事務所作品集」、前掲書、pp277-451
- ^ 広瀬毅彦、前掲書、p18
- ^ 『絵はがきで見る日本近代』富田昭次、青弓社, 2005p182
- ^ 『既視感(デジャヴ)の街へ』-ロイヤルアーキテクトゲオログ・デラランデ 新発見作品集京都発大龍堂通信:メールマガジン通巻9524号 2012年9月16日