第2代マッセリーン伯爵 クロットワーシー・スケッフィントン (英語 : Clotworthy Skeffington, 2nd Earl of Massereene 、1743年 1月28日 – 1805年 2月28日 )は、アイルランド貴族 。フランスで債務を重ねて、1770年から1789年まで債務者監獄 に投獄されたが、1789年に脱走した[ 1] 。アイルランドに戻った後も豪奢な生活を送り、1793年と1796年から1797年までの2度にわたって債務者監獄に投獄された[ 2] 。1756年から1757年までロックネイ卿 の儀礼称号 を使用した[ 3] 。
生涯
初代マッセリーン伯爵クロットワーシー・スケッフィントン と2人目の妻アン(Anne 、旧姓エア(Eyre )、1716年ごろ – 1805年5月20日、ヘンリー・エアの娘)の息子として、1743年1月28日に生まれた[ 3] 。1757年9月14日に父が死去すると、マッセリーン伯爵 位を継承した[ 3] 。ハーロー校 で教育を受けた後[ 2] 、1758年にケンブリッジ大学 コーパス・クリスティ・カレッジ に入学した[ 4] 。1759年ごろよりグランドツアー に出て、1763年に旅を終えてパリ に定住した[ 2] 。
1764年に成人するとともにアントリム県 での領地を正式に継承したが、1770年には3万ポンドの債務を背負った[ 2] 。債務を重ねた理由は放蕩した生活、女遊び、ギャンブル、さらにバルバリア海岸 からフランスとスイスに塩を輸入する計画に約1万ポンド投資して失敗したと多岐にわたる[ 2] 。アントリム県で領地を管理していたマッセリーン伯爵の母は伯爵が自発的に改善するよう債務返済を拒否したが、伯爵は債務者監獄 であるフォル=レヴェック (英語版 ) に収監されても態度を変えず、豪奢な生活を送った[ 5] 。1770年6月に脱走を試みたが、失敗に終わった[ 1] 。1780年にフォル=レヴェックが閉鎖されると、伯爵はラ・フォルス監獄 (英語版 ) に移送された[ 1] 。この時代のフランスでは債務者監獄に25年間収監されれば債務が免除されるが、伯爵はその後も脱走を試み、1789年に成功した[ 2] 。脱走の経過は『アイルランド人名事典 』では「1789年春にパリの暴徒を金で雇って、監獄の壁を破壊して逃亡に成功、5月にイングランドのドーヴァー に到着」とし[ 2] 、『オックスフォード英国人名事典 』では「バスティーユ襲撃 の前日である1789年7月13日、パリの群衆により解放された。脱走の後はまずイギリス大使館に向かい、続いて再逮捕の危険がないと知るとカレー に向かった」とした[ 5] 。
いずれにしても、伯爵は監獄で知り合い、脱走を手伝ったマリー・アンヌ・バルシエ(Marie Anne Barcier 、1762年ごろ – 1800年10月、監獄長バルシエの娘)と8月にロンドンで正式に結婚して、11月下旬には領地のアントリム城 (英語版 ) に戻った[ 5] 。しかし、アイルランドでも豪奢な生活を続け、1791年末には領地売却を噂された[ 2] 。1793年にロンドンのハットン・ガーデン (英語版 ) に移り、向かいの邸宅の使用人エリザベス・ブラックバーン(Elizabeth Blackburn 、旧姓レーン)と知り合った[ 2] 。同年に債務者監獄に投獄されたが、裁判で債務が不当に負わされたものだとして無効とされ、釈放された[ 2] 。1796年に三たび投獄され、今度は領地を信託に預けることに同意して釈放され、1797年にアントリム城に戻った[ 2] 。
1798年アイルランド反乱 (英語版 ) ではヨーマンリー部隊を招集して、同年6月のアントリムの戦い (英語版 ) で反乱軍によるアントリム城攻撃を撃退した[ 2] 。
1805年2月28日にアントリム城 (英語版 ) で死去、弟ヘンリー が爵位を継承した[ 3] 。
家族
1789年8月19日、ロンドン でマリー・アンヌ・バルシエ(Marie Anne Barcier 、1762年ごろ – 1800年10月/11月)と結婚したが[ 3] [ 2] 、2人の間に子供はいなかった[ 6] 。1793年、マリー・アンヌは300ポンドの年金を受け取り、別居に同意した[ 2] 。
1802年、エリザベス・ブラックバーン(Elizabeth Blackburn 、1773年ごろ – 1838年3月19日、旧姓レーン)と再婚した[ 2] 。伯爵はエリザベスとは1793年にハットン・ガーデン (英語版 ) で知り合い、1797年にアントリム城に戻るとエリザベスを愛人としたが、2人が正式に結婚したときにはエリザベスがジョージ・オドラン(George O'Doran 、1828年没)と付き合っており、オドランは伯爵とその家族と友人を離間した[ 2] 。伯爵は孤立して、1804年に書いた遺言状で遺産のほとんどをエリザベスに残した[ 2] 。伯爵の死後、遺言状の有効性が裁判で争われ、1808年10月と1809年3月の判決で遺言状が無効とされた[ 2] 。エリザベスは上告を諦める代償として、爵位を継承した伯爵の弟ヘンリー から800ポンドの年金と1万5千ポンドを受け取った[ 2] 。
出典
^ a b c Alger, John Goldworth (1897). "Skeffington, Clotworthy" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 52. London: Smith, Elder & Co . pp. 320–321.
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Richey, Rosemary (October 2009). "Skeffington, Clotworthy" . In McGuire, James; Quinn, James (eds.). Dictionary of Irish Biography (英語). United Kingdom: Cambridge University Press. doi :10.3318/dib.008104.v1 。
^ a b c d e Cokayne, George Edward ; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas , eds. (1932). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times (Lindley to Moate) . Vol. 8 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. p. 546.
^ "Massereene, Earl of, Clotworthy Skeffington. (MSRN758E)" . A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
^ a b c Alger, John Goldworth ; Powell, Martyn J. (3 January 2008) [23 September 2004]. "Skeffington, Clotworthy, second earl of Massereene". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/25655 。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入 。)
^ Burke, Sir Bernard ; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. p. 1366.
外部リンク