クリストフ・ダウム(Christoph Daum、1953年10月24日 - 2024年8月24日)は、ドイツ・ツヴィッカウ出身の元サッカー指導者。
選手略歴
プロ選手としてのプレー経験は無い。ハムボルン07(Hamborn 07)のジュニアユースチームでサッカーを始める。1972年にはアイントラハト・デュースブルク(Eintracht Duisburg)、そして1975年から当時ドイツ3部に所属していた1.FCケルン(1. FC Köln)のアマチュアチームでプレーをする。当時存在していたドイツ・アマチュア選手権(Deutsche Amateur Meisterschaft)に1981年優勝した。主にディフェンダーとしてプレーをしていた。
監督略歴
ドイツ国内での活躍の場を失い、トルコのベシクタシュJK監督に就任した。現在はサッカールーマニア代表監督。
1.FCケルン
1981年より同クラブのアマチュアチームの監督、1985-86年シーズンよりトップチームのコーチを務めた。1986年9月、32歳の若さでドイツ・ブンデスリーガ1部に属するトップチームの監督に就任した。就任当時国内リーグで降格圏の16位と低迷していた1.FCケルンを立て直し、監督初シーズンを10位で終える。翌シーズンはピエール・リトバルスキーやユルゲン・コーラー、ボド・イルクナー、トーマス・ヘスラーらを中心にチームを作り上げ、3位でシーズンを終える。
1988-89年シーズンからは2シーズン連続でドイツ・ブンデスリーガ1部準優勝を飾り、UEFAカップでは準決勝に進出した[1]。1988年頃からFCバイエルン・ミュンヘンのウリ・ヘーネスGMやユップ・ハインケス監督とメディアを通してバトルするようになり、「FCバイエルン・ミュンヘンの対抗馬」として知られるようになる[2]。
VfBシュトゥットガルト
1990年11月にドイツ・ブンデスリーガ1部に属するVfBシュトゥットガルトの監督に就任。就任当時リーグ15位と低迷していたチームを6位に押し上げシーズン終了後にはUEFAカップ出場権を得た。1991-92年シーズンにはマティアス・ザマーやギド・ブッフバルトらを中心にまとめ上げたチームを作り上げ、ドイツ・ブンデスリーガ1部での優勝を果たした。翌シーズンにはドイツ・スーパーカップのタイトルを獲得。UEFAチャンピオンズリーグの本大会に出場するものの、リーズ・ユナイテッドAFC戦で交代ミスを犯し(当時は外国人枠は3人までであったが、4人目の外国人選手を試合途中から投入)、本大会から姿を消すこととなった[3]。。翌シーズンはリーグ7位でシーズンを終えた。
ベシクタシュJK
1994年1月にスュペル・リグの名門ベシクタシュJKの監督に就任。1994-95年シーズンにはトルコ・カップとトルコ・スーパーカップで優勝。翌シーズンにはスュペル・リグでの優勝を果たした。
バイエル・レバークーゼン
1996年7月にドイツ・ブンデスリーガ1部に属するバイエル・レバークーゼンの監督に就任。前シーズンには最終節に残留を決めるなど低迷していたチームを立て直し、ドイツ・ブンデスリーガ1部準優勝を果たした。その後も3位、2位、2位と同クラブの黄金期を築き上げた。当時の主力にはイェンス・ノヴォトニー、ロベルト・コヴァチ、ニコ・コヴァチ、カルステン・ラメロウ、ウルフ・キルステン、ミヒャエル・バラック、ゼ・ロベルト 等がいた。
UEFA欧州選手権2000終了後、ドイツ代表監督就任に合意するものの、同年10月21日に行われた任意の頭髪検査でコカインが検出され、この契約は破棄され、バイエル・レバークーゼンの監督も辞任した。
トルコ、オーストリアでの実績
スュペル・リグのベシクタシュJKやフェネルバフチェSK、オーストリア・ブンデスリーガの名門FKアウストリア・ウィーン等で監督を歴任。オーストリア・ブンデスリーガやオーストリア・カップ、トルコ・スーパーカップなどのタイトルを獲得し、スュペル・リグでは2連覇を果たした。
1.FCケルン
2006年11月に古巣の1.FCケルンの監督に復帰。ドイツ・ブンデスリーガ2部に降格していた同クラブを再び1部に導いた。
死去
2024年8月24日、ケルンで死去。70歳没[4]。
監督経歴
タイトル・順位
エピソード
脚注