クリスティアン・ウルリヒ1世(Herzog Christian Ulrich I. von Württemberg-Oels, 1652年4月9日 - 1704年4月5日)は、シレジアのヴュルテンベルク=エールス公。
生涯
ヴュルテンベルク=エールス公ジルフィウス1世ニムロートとその妻でエールス公カール・フリードリヒ1世の娘エリーザベト・マリーの間の第4子、三男として生まれた。1669年、長兄のカール・フェルディナント(1650年 - 1669年)が死去したためにベルンシュタット公国を代わりに相続した。1697年に次兄のジルフィウス・フリードリヒが嗣子の無いまま死ぬと、ベルンシュタットを甥のカールに譲り、自らはエールス公領およびユリウスブルク、メツィボルとトレプニッツの所領を受け継いだ。
1698年、ザンクト・ヨハンネス城(Schloss- und Hofkirche St. Johannes)内の宮廷教会に公爵家の墓廟を増築したほか、エールス城(Schloss Oels)に貴重な美術品と書物のコレクションを築き上げた。また1685年にザクセン貴族のプリットヴィッツ家(Prittwitz)からノイドルフ(Neudorf)の所領を買い上げ、1692年までに7年をかけてバロック様式の城館と村を建築した。城の名前は2番目の妻ジビュレ・マリーに因み、ジビュレノルトと名付けられた。1704年に死去し、自らが建立した公爵家霊廟に埋葬された。
子女
1672年3月13日にベルンブルクにおいて、アンハルト=ベルンブルク侯クリスティアン2世の娘アンナ・エリーザベト(1647年 - 1680年)と最初の結婚をした。夫妻は間に7人の子女をもうけた。
- ルイーゼ・エリーザベト(1673年 - 1736年) - 1688年、ザクセン=メルゼブルク=ラウフシュタット公フィリップと結婚
- クリスティアン・ウルリヒ(1674年)
- レオポルト・ヴィクトル(1675年 - 1676年)
- フリーデリケ・クリスティーネ(1676年)
- ゾフィー・アンゲリカ(1677年 - 1700年) - 1699年、ザクセン=ツァイツ=ペーガウ=ノイシュタット公フリードリヒ・ハインリヒと結婚
- エレオノーレ・アモーネ(1678年 - 1679年)
- テオドージア(1680年)
1683年10月23日にドーバールークにおいて、ザクセン=メルゼブルク公クリスティアン1世の娘ジビュレ・マリー(1667年 - 1693年)と再婚し、間に7人の子女をもうけた。
- クリスティーネ・マリー(1685年 - 1696年)
- クリスティアン・エルトマン(1686年 - 1689年)
- エレオノーレ・ヘートヴィヒ(1687年 - 1688年)
- ウルリーケ・エルトムーテ(1689年 - 1690年)
- カール・フリードリヒ2世(1690年 - 1761年) - ヴュルテンベルク=エールス公
- クリスティアン・ウルリヒ2世(1691年 - 1734年) - ヴュルテンベルク=ヴィルヘルミーネノルト公
- エリーザベト・ジビュレ(1693年 - 1694年)
1695年2月4日にハンブルクにおいて、オストフリースラント侯エンノ・ルートヴィヒの娘ゾフィー・ヴィルヘルミーネ(1659年 - 1698年)と3度目の結婚をし、間に娘を1人もうけた。
- アウグステ・ルイーゼ(1698年 - 1739年) - 1721年、ザクセン=ヴァイセンフェルス=バルビ公ゲオルク・アルブレヒトと結婚
1700年12月6日にギュストローにおいて、メクレンブルク公グスタフ・アドルフの娘ゾフィー(1662年 - 1738年)と4度目の結婚をしたが、間に子供は無かった。
参考文献
- Sönke Lorenz (Hrsg.): Das Haus Württemberg. Ein biographisches Lexikon. Kohlhammer, Stuttgart 1997, S. 208–209, ISBN 3-17-013605-4