第3代オックスフォード=モーティマー伯爵 エドワード・ハーレー (英語 : Edward Harley, 3rd Earl of Oxford and Earl Mortimer 、1699年 /1700年 – 1755年 4月11日 )は、グレートブリテン王国 の貴族、政治家。
生涯
エドワード・ハーレー (英語版 ) (1664年 – 1735年、初代オックスフォード=モーティマー伯爵ロバート・ハーレー の弟エドワード (英語版 ) の息子)とサラ・フォーリー(Sarah Foley )の息子として、1699年頃に生まれた[ 1] 。ウェストミンスター・スクール で教育を受けた後[ 2] 、1717年2月21日にオックスフォード大学 クライスト・チャーチ に入学、M.A. の学位を修得した後1737年5月17日にD.C.L. (英語版 ) の学位を修得した[ 3] 。
1727年イギリス総選挙 でヘレフォードシャー選挙区 (英語版 ) から出馬して当選した後、トーリー党 の一員として活躍したが、1741年2月13日のロバート・ウォルポール 罷免動議には反対し、「悪に報いるに善を以てする」[ 注釈 1] と述べた後庶民院から引退した[ 2] 。
1741年6月16日に伯父の息子にあたる第2代オックスフォード=モーティマー伯爵エドワード・ハーレー が死去すると、特別残余権 (英語版 ) によりオックスフォード=モーティマー伯爵 の爵位を継承した[ 1] 。また、1753年より大英博物館 理事(Trustee )を務めた[ 2] 。
ブランプトン・ブライアン・ホール (英語版 )
1755年4月11日にバース で死去、18日にブランプトン (英語版 ) で埋葬された[ 1] 。長男エドワード が爵位を継承した[ 1] 。
人物
第4代チェスターフィールド伯爵フィリップ・スタンホープ は1745年に第3代オックスフォード=モーティマー伯爵と第3代準男爵ワトキン・ウィリアムズ=ウィン がトーリー党で「尊敬できるただ2人」であると述べた[ 2] 。
家族
1725年3月16日、マーサ・モーガン(Martha Morgan 、1774年1月4日没、ジョン・モーガンの娘)と結婚[ 1] 、5男2女を儲けた[ 2] 。
脚注
^ ウォルポールは初代オックスフォード=モーティマー伯爵ロバート・ハーレー の弾劾に関わっており、第3代オックスフォード=モーティマー伯爵は「ウォルポールは弾劾で指摘された疑いに証拠がないことを知っている」とし、それを悪としたが、罷免動議は刑罰法案よりもぞっとするものであるとした(原文:"whose principles abhor even the shadow of bills of pains and penalties! ")[ 2] 。
出典
^ a b c d e Cokayne, George Edward , ed. (1895). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (N to R) (英語). Vol. 6 (1st ed.). London: George Bell & Sons. p. 180.
^ a b c d e f Cruickshanks, Eveline (1970). "HARLEY, Edward (?1699-1755), of Eywood, Herefs" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月6日閲覧 。
^ Foster, Joseph , ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (英語). Vol. 2. Oxford: University of Oxford. p. 609.