1504年、レオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェ共和国からの依頼を受け、ヴェッキオ宮殿(共和国の政庁舎)の大会議室「500人大広間」に『アンギアーリの戦い』を描き始めた。その時の契約書は他ならぬニッコロ・マキャヴェッリがサインしたものであった。同時に、ダ・ヴィンチの壁画と反対側の壁には、『ダビデ像』を仕上げたばかりのミケランジェロが『カスチーナの戦い』(Battaglia di Cascina)の制作を手がけていた。同じプロジェクトを同時期に両者が手がけたのは、この時だけである。ミケランジェロの『カスチーナの戦い』は、入浴していた兵士たちが不意打ちを喰らう場面を描写していた。しかし、ミケランジェロは下描きが終わった時に(1505年)、教皇の墓を手がけるためにユリウス2世にローマへ呼び戻され、『カスチーナの戦い』は未完のまま終わった。
イタリアの美術史家でカリフォルニア大学のマウリツィオ・セラチーニ(英語版)教授は、1563年にヴァザーリによって五百人大広間に描かれたフレスコの壁画『マルチャーノ・デッラ・キアーナの戦い』(Battaglia di Marciano della Chiana)の一つの裏にダ・ヴィンチの『アンギアーリの戦い』が隠されている、と主張している。ヴァザーリのフレスコ画の12m地点、フィレンツェ兵士が掲げている緑色の軍旗のところに、"CERCA TROVA"(「探せ、さすれば見つかる」)というヴァザーリの文字が記されており、これがヒントであるという。