アダド・ニラリ2世 (Adad-nirari II 、在位:前911年[ 1] -前891年)は、古代メソポタミア地方のアッシリア の王。一般的に、新アッシリア 時代最初の王であると考えられている。西方でアラム人 と戦い、ハブール川流域を確保したほか、南方のバビロニアを攻めてその領土を切り取るなどして、新帝国の土台を築いた。
来歴
アダド・ニラリ2世時代における古代オリエントの経済的復興
アダド・ニラリ2世はアッシュル・ダン2世 の息子である。アダド・ニラリ2世は小規模な宮廷闘争の後に王位を継承した。王位継承がアッシリアの名目的な属国の反乱を誘発した可能性が高い。
彼は、それまでは名目的にアッシリアの下にあったに過ぎない諸地域を確保した。ハブール川 とユーフラテス川 の合流点で前910年に戦い、問題の種となっていた現地のアラム人を征服して追放した。北方で新ヒッタイト とフルリ人 を平定した後、アダド・ニラリ2世はバビロニア のシャマシュ・ムダミク (英語版 ) を2度攻撃し打ち破った。また同年中にディヤラ川 北方の広大な領域と中部メソポタミア のヒート (英語版 ) とザンク (英語版 ) を併合した。また治世の後半にはバビロニア (ナブー・シュマ・ウキン1世 (英語版 ) 時代)からさらに領土を獲得した。西方でも遠征を行い、アラム人 の都市Kadmuhとヌサイビン (英語版 ) (ニシビス)を平定した。彼は膨大な量の戦利品を得るとともに、ハブール川 流域も確保した[ 2] 。彼の治世は古代オリエントの経済復興の時代にあたっており、フェニキア とアラムの交易路が拡大し、アナトリア とリビア人(第22王朝 支配下のエジプト )、メソポタミア、地中海が結びつけられた。
アダド・ニラリ2世の息子トゥクルティ・ニヌルタ2世 の治世になっても敵国との戦いは続いた[ 2] 。
アダド・ニラリ2世の治世から前7世紀半ばのアッシュルバニパル の治世までの完全なリンム表(一年任期で交代するリンム 職の名前を記したリスト)が残されており、恐らく古代オリエント史において正確に編年を復元できる最初の年はアダド・ニラリ2世の治世第1年(前911年)である。ただし、『アッシリア王名表 』は一般にアダド・ニラリ2世より数世紀前までの期間において相当正確であると考えられており、学者たちは前12世紀後半のアッシュル・レシュ・イシ1世 の時代まで共通した編年体系を用いている。
関連項目
脚注
^ Bertman, Stephen (2005). Handbook to Life in Ancient Mesopotamia . New York: Oxford UP. p. 74 (『古代メソポタミアにおける生活の入門書』(著:ステファン・バートマン、オックスフォード大学出版 、2005年)p.74)
^ a b Healy, Mark (1991). The Ancient Assyrians . New York: Osprey. p. 6 (『古代アッシリア人』(著:マーク・ヘンリー、オスプレイ出版(英語版の脚注では米国ニューヨークとしているが、英国オックスフォード?)、1991年)p.6)