The Big Six(ザ・ビッグ・シックス、偉大な6人)は、英領黄金海岸の統一黄金海岸会議(英語版)(UGCC)の6人の指導者である。彼らは1948年アクラ暴動(英語版)の結果逮捕された。ガーナのセディ紙幣に描かれている。
構成
経緯
AWAM不買運動
1948年1月、ヨーロッパからの輸入品に対する組織的不買運動が発生した。この運動の目的は、国際貿易を行う西アフリカ商人協会(AWAM)に商品の値下げを要求する事だった[1]。
2月、これに複数の暴動が連なった[2]。この運動は2月28日に終了する予定だった[1]。
クリスチャンボルグ十字路銃撃戦
2月20日、エンクルマとダンクアは、黄金海岸連隊(英語版)や王立西アフリカ辺境軍(英語版)として第二次世界大戦で戦った帰還兵と会い、不遇の立場に置かれた彼らを抗議運動に駆り立てた[1][3][4]。
2月28日、クリスチャンボルグ十字路銃撃戦が発生した。植民地政府の所在するクリスチャンボルグ城(英語版)に向かって、帰還兵達が嘆願書を提出するために行進していた[3][5]。Colin Imray警視が帰還兵に解散を命じたが、彼らは拒否した。警視は部下に丸腰の帰還兵を撃つよう命じ、部下が拒否すると、自ら部下3名を射殺した[1][5]。その結果アクラ暴動が新段階に進み、外国人の店が襲撃された。これは5日間続いた[1][2]。
The Big Sixの逮捕
同日、これらの暴動を受けて、統一黄金海岸会議はロンドンの国務長官に「暫定政府に直ちに権限を委譲するよう」電信を送った[4]。また、会議はGerald Creasyを暴動への対処を誤ったとして非難した[2]。
3月1日、暴動法が施行され、統一黄金海岸会議の6人の指導者は逮捕された。6人は北部の辺境の地に拘留された[1]。これ以降、彼らはThe Big Sixと呼ばれるようになり、人気が増していった[5]。
3月8日、複数の教師と学生がThe Big Sixの拘留に反対するデモを行ったが、彼らは皆行方不明になった。
脚注
外部リンク
- Pictures of "The Big Six"