ビッツァーはPLATOの父とされており、高品質のコンピュータ支援教育を提供するにはよいグラフィックス表示が重要だと考えていた(毎秒10文字のテレタイプ端末が一般的だった時代のことである)。1960年、最初のシステム PLATO I が ILLIAC I 上で動作開始した。システムにはディスプレイ用のテレビ受像機とシステムのファンクションメニューを操作する特殊キーボードが含まれている。1961年、2名のユーザーが同時に利用できる PLATO II が稼働している。
プロジェクトの有用性が認められ、PLATOシステムは1963年から1969年にかけて再設計され、PLATO III が完成した。これはプログラミング言語TUTOR(英語版)を使って誰でもレッスンモジュールを設計できるという機能を備えていた。TUTORは1967年、生物学の大学院生ポール・テンザーが考案した。ウィリアム・ノリスが寄贈した CDC 1604(英語版) 上で作られ、PLATO III は同時に20のレッスンを実行でき、大学周辺の何箇所かに専用端末を配置してシステムに接続することができた。
NSFの関与
PLATO III までは陸海空の軍の基金からの少ない出資でまかなわれていたが、PLATO III が運営開始すると誰もが規模拡大に意味があると確信するようになった。1967年、アメリカ国立科学財団 (NSF) はそれなりの出資を約束し、ビッツァーは大学内に Computer-based Education Research Laboratory (CERL) を創設することになった。
1972年、新システム PLATO IV が運営可能となった。PLATO IV の端末は重要な技術革新である。ビッツァーが発明したオレンジ色のプラズマディスプレイを採用し、メモリー性とビットマップグラフィックスを両立させている。このプラズマディスプレイはベクター描画が高速で、1260ボーで1秒間に60本の線か180文字を描画できる。ビットマップとしては512×512ピクセルで、文字や線の描画はハードウェアの論理回路で行う。ビットマップグラフィックスで自前の文字も表示できる。プログラム制御でマイクロフィルムをスクリーンに投影できる。PLATO IV 端末には16×16の赤外線タッチパネル機能があり、画面に表示された選択肢に学生が指でタッチして答えることができる。
マイクロプロセッサが登場すると、新たなPLATO端末は PLATO IV 端末より安価でずっと柔軟性の高いものにできるようになった。イリノイ大学では PLATO V 端末と呼ばれたが、システム自体は PLATO IV のままだった。端末は Intel 8080 を搭載してローカルにプログラムを実行できるようになった。現代のJavaアプレットやActiveXコントロールに近い。小さいソフトウェアモジュールを端末にダウンロードすることで、PLATOのコースウェアで複雑なアニメーション表示など従来では不可能だった表現が可能になった。
1972年初め、パロアルト研究所の研究者らがイリノイ大学のPLATOシステムを見学した。このときグラフィックス・アプリケーション・ジェネレータの Show Display、ユーザー定義文字を作成する Charset Editor、Term Talk や Monitor Mode といったコミュニケーションプログラムなどが披露された。
1975年にはCDCが寄贈した CDC Cyber 73(英語版) を使い、従来からの場所以外に、小中学校、高校、単科大学、総合大学、軍の研究所など150箇所で使われるようになった。PLATO IV はテキスト、グラフィックス、アニメーションなどでコースウェアを構成でき、共有メモリ機能によって複数ユーザー間でデータをやりとりできる。共有メモリ機能によってチャットのようなプログラムや、マルチユーザー型のフライトシミュレータなども開発された。
PLATO IV の運用開始にあわせて、ビッツァーはプロジェクトの成功を宣言し、汎用的なコンピュータ支援教育が万人に向けて可能になったと主張した。しかし、端末は非常に高価で(約1万2千ドル)、PLATOをさらに普及させるにはコスト低減のためのスケールダウンが必要と思われた。
CDCの時代
PLATO IV は製品化できるまでの品質レベルに達し、ウィリアム・ノリスはこれを製品化することにますます関心を寄せるようになった。ビジネスの観点から、ノリスはCDCをハードウェア製造企業からサービス企業へと進化させたいと考えており、コンピュータ支援教育は将来有望な市場と思われた。また、ノリスは1960年代末の社会不安の原因は社会的不平等にあると考えていて、それを何とかしたいと考えていた。PLATOは高等教育を受けられない若者に大学並みの教育を受ける機会を与えられる可能性があった。
CDCがPLATOの販売促進を行っていたころ、海外でもPLATOを使用する動きが出始めた。南アフリカ共和国は1980年代初期の最大のPLATOユーザーの1つである。南アフリカの電力会社Eskom(英語版)はヨハネスブルグ北西の近郊にCDCの大型機を所持していた。発電および送電に関する管理タスクなどに使われていたが、PLATOソフトウェアも動作させていた。1980年代初期、南アフリカ最大のPLATOシステムを設置したのは西ケープ大学で、有色人種の教育用に一時期は数百の PLATO IV 端末をヨハネスブルグとデータ回線で接続していた。他にもいくつかの研究教育機関でPLATOを採用している。例えば、ニューカッスル近郊のマダデニにあるマダデニ・カレッジなどがある。
1976年時点で、本来の PLATO IV システムは950の端末からアクセスでき、3500時間のコースウェアを擁し、CDCとフロリダ州立大学でも追加のシステムが運用されていた[7]。最終的に12,000時間以上のコースウェアが開発されている。高校とカレッジの課程はほぼカバーしており、他に読書術、産児調節、ラマーズ法訓練、家計簿などを扱ったコースウェアもある。イリノイ大学医学部は大学1年生向けの科学系のコースウェアと自主試験システムを開発した[8][9]。1980年代にCDCが撤退すると、興味を持っていた教育者が IBM PC にその機能を移植し、さらにはwebベースのシステムを開発した。
その後の成果と他のバージョン
PLATOに関してCDCで最大の商業的成功となった事例として、全米証券業協会(英語版) (NASD) のオンライン試験システムがある。1970年代にマイケル・スタイン、E・クラーク・ポーター、ジム・ゲスキエールがNASD重役のフランク・マコーリフと協力してオンデマンド型の商用試験サービスを開発した。試験ビジネスは徐々に成長し、1990年にはCDCから Drake Training and Technologies として独立することになる。その後同社はノベルと提携し、メインフレームからLANベースのクライアントサーバモデルへと移行し、世界規模で様々な資格認定団体のオンライン試験サービスを提供するビジネスを展開するようになっていった。現在はプロメトリックという社名である。また、プロメトリックを退職した人々が同様の企業ピアソンVUEを1994年に創業している。
他にも小規模な類似企業がいくつかPLATOシステムから派生していった。2012年現在で存続している企業として The Examiner Corporation がある。イリノイ大学出身のスタンレー・トロリップとCDC出身のゲイリー・ブラウンが1984年に The Examiner System のプロトタイプを開発し、同社の礎を築いた。
1973年から1980年にかけて、イリノイ大学医学部のトーマス・T・チェンのグループがTUTORをミニコンピュータ Modcomp IV(英語版) に移植した[11]。初のミニコンピュータへの移植であり、1976年にはほぼ動作するようになった[12]。1980年、チェンはこれを販売するために Global Information Systems Technology (GIST) を創業。後に Adayana Inc. に吸収された。Modcomp IV への移植に参加したヴィンセント・ウーはアタリ向けPLATOカートリッジを開発している。
イリノイ大学もPLATOの開発を継続し、University Communications, Inc. (UCI) と共同で NovaNET という商用オンラインサービスを立ち上げた。CERLは1994年に閉鎖となり、PLATOのコードベースはUCIが管理保守することになった。UCIは後に NovaNET Learning と改称、同社は National Computer Systems (NCS) に買収された。間もなく、NCSはピアソン(英語版)が買収し、何度かの名称変更を経て、Pearson Digital Learning となった。