O・A・C・ランド(O.A.C. Lund, 1885年5月21日 - 1963年
)は、スウェーデン出身のアメリカ合衆国の映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサーである[1]。本名オスカル・アラリク・ルンド(Oscar Alarik Lund)、米国ではオスカー・A・C・ランド(Oscar A.C. Lund)、オスカー・ランド(Oscar A.C. Lund)とも名乗った[1]。
人物・来歴
1885年(明治18年)5月21日、スウェーデン・ヴェストマンランド県ハルストハンマルのコルベックで「オスカル・アラリク・ルンド」として生まれる[1]。
20世紀初頭にアメリカ合衆国に移住し、1912年(明治45年)、エクレール・アメリカ製作、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)配給、ジョージ・ラーキン主演の短篇劇映画 The Wager で映画監督としてデビューする[1][2]。エクレール・アメリカでは、1914年(大正3年)の『国事探偵』まで、短篇映画を量産し、同年、シューバート・フィルムに移籍する[1]。
1915年(大正4年)、ユニヴァーサルに移籍、ハリー・ケリー主演の長編映画 Just Jim を監督する。1916年(大正5年)にユニヴァーサル傘下に設立された製作会社・ブルーバード映画でも、1918年(大正7年)に『相携へて』、1919年(大正8年)に『自然の乙女』をヴァイオレット・マースロウ主演作としてそれぞれ監督し[3][4]、いずれも日本でも公開された[5]。同年、『自然の乙女』をもってユニヴァーサルでの作品の記録は終わる[1]。
5年後の1924年(大正13年)、自らのランド・プロダクションズ製作、シーナ・オウエン主演の For Woman's Favor を監督する[1]。1926年(大正15年)、ヘンリー・マックレイ監督の『電話の秘密』に脚本を提供して以降、米国でのキャリアの記録はない[1]。
1933年(昭和8年)、母国スウェーデンで、ランドとしては初めてのトーキー Kärlek och dynamit (「恋とダイナマイト」の意)を監督する[1]。同作以降の記録はない[1]。
1963年(昭和38年)、死去した[1]。満77-78歳没。ストックホルムの共同墓地スコーグスシュルコゴーデンに眠る。
フィルモグラフィ
関連事項
註
外部リンク