J・ウォーレン・ケリガン(J. Warren Kerrigan, 1879年7月25日 - 1947年6月9日)は、アメリカ合衆国の俳優、映画監督である[1]。本名ジョージ・ウォーレン・ケリガン(George Warren Kerrigan)。ジャック・ウォーレン・ケリガンと表記することもある[2]。
1879年(明治12年)7月25日、アメリカ合衆国のケンタッキー州ルイビルに生まれる[1]。11年年長の姉は女優のキャスリーン・ケリガンである[1]。
1910年(明治43年)、イリノイ州シカゴのエッサネイ・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニー(エッサネイ・スタジオ)に入社、同年2月2日に公開された短篇映画 A Voice from the Fireplace に出演したのが、最古の出演記録である[1]。同年、アメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーに移籍している[1]。
1913年(大正2年)には、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に移籍、傘下のヴィクター映画が量産する短篇映画に多く主演する[1]。1914年(大正3年)からヴェラ・シソンとの共演による主演作「テレンス・オルーク」ものが開始する[1]。1915年(大正4年)、自らが主演する短篇映画 The Widow's Secret を監督し、映画監督としてもデビューしたが、翌1916年(大正5年)に同様の主演短篇『愛の曲』を監督し、同2作をもって監督業からは撤退した[1]。同年にユニヴァーサル傘下に設立されたブルーバード映画が製作した映画、『運命』、『惡魔の子』、『夏の思ひ出で』、『社会の賊』、『人の力』に主演[1]、いずれも日本でも公開された[3]。
1917年(大正6年)にはアメリカン・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーに戻り、1920年(大正9年)には、映画界を一旦退いた。1923年(大正12年)、『幌馬車』に主演し、再び主演俳優としてカムバックを果たすが、1924年(大正13年)には映画界を退いた[1]。最後まで主演を守り、サイレント映画にしか出演しなかった[1]。
1947年(昭和22年)6月9日、カリフォルニア州オレンジ郡ニューポートビーチバルボア・ビーチで肺炎のため死去した[1]。満67歳没。同州グレンデールにあるフォレスト・ローン・メモリアル・パークに眠る[4]。
特筆以外すべて出演作である[1]。1910年 - 1913年の期間に250作に出演しているが[1]、おもな作品以外を割愛した。
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