FCM F1とは戦間期後期にフランスのForges et Chantiers de la Méditerranée(地中海造船・製鉄所)で開発された超重戦車である。1940年にはシャール2Cの代替のために12両が発注されたが、生産開始の前にフランスが制圧され、木製のモックアップが完成したのみであった。FCM F1は大きく、かつ前後に引き伸ばされたような形をしており、2基の砲塔を備えていた。1基は車体前部に、もう1基は後方に置かれ、各砲塔が高初速の単装砲を備えた。後部砲塔はより配置が高いために前方の砲塔を超過して射撃できた。本車は重装甲化を目指していた。1940年時点で、その寸法と防御水準のため重量はおよそ140tとなり、実際に量産のため発注指示まで進んだ中ではこれまでで最高に重い戦車である。エンジン2基をもってしてもその速力は低速であった。この戦車の主な用途はドイツ軍の防御ラインの突破であって敵戦車との交戦ではなかった。FCM F1の開発経緯は非常に込みいっている。これは幾種類も超重戦車の計画が存在し、設計目標が重なり合い、これらの仕様に定期的に変更が加えられたためである。各計画のために次々と、複数の企業が1種類かそれ以上の競合製作の申し出に加わっていた。
1929年7月、STCC(Section Techniques des Chars de Combat、戦車部技術課)ではまた別の重戦車の研究を開始し、出力500hpのエンジンとジョンソン式履帯をつけ、速力12km/hとより高速な設計案を提示している。重量は65t、砲塔に120mm砲を載せ、前面防御は50mm厚であった。1930年1月、これは高初速75mm砲を載せた重量70tの戦車の計画に変更された。全周の装甲は40mm厚で、全長は9.35mである。この設計はすぐさま廃案となり、以後長年にわたりフランスの超重戦車の開発は座から外されていた[2]。
しかし1936年5月4日、Julien Claude Marie Sosthène Dufieux将軍の指導のもと、「Conseil Consulatif de l'Armement」(直訳で兵器諮問会議)が重戦車の開発を決定し、続いて仕様が1936年11月12日に定められた。最大重量は45t、距離200m以上から射撃された75mm徹甲弾に耐え、速力は30km/h、航続距離は200km、そして長砲身75mm砲を1門車体に搭載し、砲塔には47mm砲を搭載する事とされた[3]。そのためこれは特大のシャール B1に似た車両になる予定だった。シャール B1は他に幾種類も開発計画が進行中であった。
1937年、AMX(イシー・レ・ムリノー工廠)、ARL(リューエ製造所)、FCMの3つの企業が試作車の提案に参加した。ARLは同時に3種類の計画案を提示すらした。ただしどれもが、この開発の初期段階でさえ45tより重たく計画されていた――しかも、実際の製造中にもっと重くなる恐れがあった。1937年3月26日、これに対して「Conseil Supérieur de la Guerre」(直訳すれば高級戦争評議会)では当初、非常に小型で安価だが60mmと重装甲で、イギリス製のマチルダI歩兵戦車によく似た車両を生産すると決めていた。また最初の設計案では37mm砲を装備していた。もっと優れた兵装が要望された際、SAET(Section de l'Armement et des Études Techniques、フランス軍参謀本部兵器戦術研究課)は1937年4月5日に調査を行い、この戦車はおよそ重量20tほどになるはずであり、一方でこの重量のクラスとして、別の戦車であるシャール G1がすでに開発に入っていると判った。
委員会では緊急に重戦車のコンセプトを復活させたが、それに適用できるのは45t戦車の計画のみであった。また近代的な要塞の攻略に最適化された戦車を区別して「Char d'Attaque des Fortifications」(直訳すれば要塞襲撃戦車)とした[4]。この車両は、砲塔に高初速砲を搭載するべきであった。ただし自身は対戦車砲に耐えるものとされた。速力は二義的なものとみなされ、最大10km/h程度と推測された。だが、超壕能力や渡渉能力は優れていなくてはならない。こうすると、結果は過度にかさばる車両になるはずで、本車はモジュール方式を採用し、区画ごとに分割輸送できなければならないとされた。1938年5月4日、「Direction des Fabrications d’Armement」(直訳で兵器生産部)ではこれをシャールFと区別してシャール H計画と呼ぶよう提案している。だがこれはオチキス H35との混同を招く少々の危険から拒否された。
1940年2月、SEAM(Société d’Études et d’Application Mécanique、機械研究・応用会社)はポーランド人技師であるアンドレ・ポニャトフスキ王子の設計による戦車を提案した。これは極めて巨大な車両で重量は220tに達した。駆動は出力925馬力のイスパノエンジン2基、ガソリン・電気式のトランスミッションを用いる。車体幅が5m、車体長が12mと縦横比に優れ、旋回が容易であることが指摘されたため、この計画が推奨された。輸送するため、この車両は全長にわたって左右に2分割することができた。この案は1940年4月20日に国防省により却下された。
1940年3月4日、超重戦車計画を監督する新しい小委員会は、90mmまたは105mm砲塔の設計が準備されたこと、つまり紙上のものであることを理解した。スケジュール上望みがないほどの遅延により、AMXの計画を放棄することが決意された。トラクターCは1941年7月まで準備ができず、AMXは4月1日に開発を終了した。小委員会ではFCM F1とARLトラクターCの両試作車の計画を推進し、すぐに前車を10両から15両発注するよう進言した。この進言は戦車研究のための新しい包括委員会に届き、ARLは1940年4月11日に木製のモックアップを1基発表した。翌日にはFCMも1基を発表した[8]。FCMの計画はずっと先進的で、新しい戦車の全てを詳細に示せると判明した。この設計では前面装甲に傾斜装甲を採用し、仕様の代わりに小型砲塔を前方へ置き、後方の砲塔は丈が高められて仕様の75mm砲の代わりに90mm砲を搭載した。本車の計画重量は140tで、2基のルノー製550hpエンジンを用いて24km/hで移動し、電気式の変速装置を用いた。委員会はARLの計画を放棄し、FCM F1に12両の事前発注を出した。配備は1941年5月以降、月に3両から4両とされた。1941年の夏には何両かの戦車を用意できるというこの予想はとても重要な検討事項であり、このとき重戦車の計画全体が、こんな車両は膨大な資源の無駄であってより多数のシャール B1を生産したほうが良いとする観点から強い反対に直面していた。また委員会ではFCMに全周120mm厚の装甲防御をほどこすよう要求した。しかしこれは重量を145tに増やし、最大速力を20km/hに減らすものだった[9]。委員会にとってこれは、将来の「Char de Forteresse」(要塞戦車)に対する、以前の決定からの脱却だった。
「要塞戦車」時の計画
1940年2月28日、戦車設計の研究のため新しく「Commission d'Études des Chars」(戦車研究委員会)が設けられた。将来のフランス戦車生産のため一貫性のある方針を作り出すことが目的である[10]。委員会では3種類の車重に基づいた等級を計画した。最も重いものは「Char de Forteresse」、直訳すれば要塞戦車である。この車両は車体に135mmまたは155mm榴弾砲を載せ、砲塔に75mmか90mm砲を載せる「シュペールシャール B」として想定された[11]。その装甲は全周が100mmから120mm厚になるものとされた。にもかかわらずその車重はおよそ80tから100tと極めて楽観的に予想された。駆動は1000馬力のエンジンによる[12]。5月14日、搭載可能な135mmもしくは155mm口径砲が存在しないため、本車は計画打ち切りの決定が下された。
^ abPaul Malmassari, 2014, "Les Maxi-Chars au-delà du Char Lourd, 2e partie — 1928-1938: Du char d'arrêt au char maximum", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel108: 53-63