ドイツ国防軍は1939年のポーランド侵攻と1940年のフランス侵攻において多数のM1897野砲を鹵獲し、ポーランドで鹵獲したものには7.5 cm F.K.97(p)、フランスで鹵獲したものには7.5 cm F.K.231(f)の制式名称を付けて運用した。
1941年のバルバロッサ作戦開始によってソ連への侵攻を開始したドイツ軍は、傾斜装甲による良好な避弾経始を有するT-34中戦車や、最厚部で100mmを超える装甲を備えるKV-1重戦車に遭遇した。当時のドイツ軍の主力対戦車砲のうち3.7 cm PaK 36は全く歯が立たず、5 cm PaK 38はT-34には対抗可能であったがKV-1に対しては貴重なタングステン芯入り徹甲弾を複数発命中させねば撃破できなかった。
T-34やKV-1に対抗可能な対戦車砲である7.5 cm PaK 40は1941年11月に生産が開始されたが、前線部隊はT-34やKV-1に対抗可能な対戦車砲を可能な限り早期に支給されることを望んでいた。ドイツ軍は、フランス軍が第二次世界大戦においてM1897野砲の一部を対戦車砲として運用していたことに目を付けた。
PaK 97/38は対戦車砲弾として主にフランス製のHEAT弾を使用しており、これはスペック上命中すればT-34やKV-1の装甲をも貫通可能であったが、一発で仕留めることは困難だった。しかも低初速ゆえに移動する戦車へ直撃弾を送り込むのは難しく、500mも離れるとたちまち命中率が低下した。HEAT弾の登場以前にはポーランド製の徹甲弾(6.8kg,570m/s)も使用されていたが初速が低いため運動エネルギーが小さく、PaK 40よりも威力が低かった。また、同じ鹵獲品であるソ連製F-22 76mm野砲を改造した7.62 cm PaK 36(r)と違って閉鎖機や薬室を改修していなかったためPaK 40と砲弾の互換性は無かったが、他国のM1897野砲及び同系列の野砲弾は捕獲使用できた。