ベルリンSバーン のティーアガルテン駅 から東を望む。6月17日通りの先に見えるのが戦勝記念塔
6月17日通り (6がつ17にちどおり、独 : Straße des 17. Juni 、ドイツ語発音: [ˈʃtʁaːsə dɛs ˈziːpˌtseːntən ˈjuːniː] )は、ドイツ のベルリン 中心部を横断する東西幹線道路の区間名称である。区間はウンター・デン・リンデン 西端となるブランデンブルク門 からティーアガルテン を抜け、シャルロッテンブルク地区のエルンスト=ロイター広場までである。
ほぼ中間点に当たるグローサー・シュテルン (ドイツ語版 ) (「大きな星」の意)中央には戦勝記念塔 が建ち、また塔とブランデンブルク門間の沿道には1945年に建てられたソビエト戦争記念碑がある。
ミッテ地区からティーアガルテン を通り抜けシャルロッテンブルクまで通じることから、1953年以前はシャルロッテンブルガー・ショセー (Charlottenburger Chaussee、「シャルロッテンブルク公道」程度の意) と呼ばれていた。
1799年に舗装され、19世紀の急激な発展で西への主要幹線道となった。第一次世界大戦 の火蓋が切られた1914年8月の軍事パレードでは、市民数十万人が集まった[ 1] 。第二次世界大戦 ではこのような光景は見られなかったが、アメリカ人ジャーナリストで歴史学者のウィリアム・L・シャイラー はアドルフ・ヒトラー がパリ から凱旋した1940年夏に大規模な戦勝パレードが行われたとしている[ 2] [ 3] 。
東西の軸にあたることからナチス期にはパレードルートに指定され、沿道には鉤十字 旗がはためいた。道幅も広くなり、1938年には世界首都ゲルマニア構想(ベルリン改造計画) の一環として、国会議事堂 (1933年2月に火災 。本格的修復は1999年)前にあった戦勝記念塔が現在の位置に移された。ベルリンの戦い で市内の全空港が利用不能になると代替滑走路 として利用された。[ 4] 。
1953年6月17日の東ベルリン暴動 では、多くの労働者の命が在独ソ連軍 とドイツ人民警察 に奪われた。この悲劇を後世に伝えるため、西ベルリン 側にあったこの通りは同年、現名称に改称された。
ラブパレード やLIVE 8 といった大規模イベントでは会場となり、また2006 FIFAワールドカップ では6週間にわたり車両通行禁止になった。現在でもベルリンマラソン のスタート地点となっている。
脚注
^ H.P. Wilmott World War One
^ William L. Shirer, The Rise and Fall of the Third Reich
^ William L. Shirer - The rise and fall of the third Reich, although I cannot find that this parade included Charlottenburger Chaussee - but it's very likely
^ Ryan, Cornelius; The Last Battle (Collins: London) 1966.
外部リンク
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