1969年東京都議会議員選挙
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投票率
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59.73% (1.15%)
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第1党
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第2党
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第3党
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政党
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自由民主党 |
公明党 |
日本社会党
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獲得議席
|
54 |
25 |
24
|
得票数
|
1,493,493 |
784,090 |
1,096,993
|
得票率
|
32.98% |
17.31% |
24.22%
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第4党
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第5党
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政党
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日本共産党 |
民主社会党
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獲得議席
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18
|
4
|
得票数
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653,811
|
221,132
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得票率
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14.43%
|
4.88%
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1969年東京都議会議員選挙は、東京都の議決機関である東京都議会を構成する都議会議員を全面改選するため、1969年7月13日に投票が行われた日本の地方選挙である。
概要
都議会議員の任期4年が満了したことに伴って実施された選挙である。1965年に東京都議会は自主解散し、同年選挙が行われたことで統一地方選挙より2年ずれる形で実施されている。
今回の選挙では、2年前の都知事選で誕生した美濃部亮吉革新都政に対する中間評価のみならず、前回総選挙から2年半が経過し総選挙が間近とされる状況下で政治動向を測る上でも重要視される選挙となった。
選挙日程など
- 改選議席数:126議席(前回より6議席増)
- 告示:1969年6月28日
- 立候補届け出期限:7月1日
- 投票日:7月13日
- 立候補者数:255名
党派別立候補者数[1]
党派
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立候 補者
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現有 議席
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日本社会党
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61
|
43
|
自由民主党
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68
|
35
|
公明党
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25
|
22
|
日本共産党
|
37
|
9
|
民社党
|
17
|
4
|
諸派
|
4
|
1
|
無所属
|
43
|
0
|
合計
|
255
|
114 (欠6)
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選挙結果
党派別当選者数と得票数[3]
党派
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当選者 合計
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新旧内訳
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現有 議席
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前回 選挙
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得票数
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得票率
|
現職
|
前職
|
元職
|
新人
|
自由民主党
|
54
|
28
|
7
|
0
|
19
|
35
|
38
|
1,493,493
|
32.98
|
公明党
|
25
|
22
|
0
|
0
|
3
|
22
|
23
|
784,090
|
17.31
|
日本社会党
|
24
|
18
|
3
|
0
|
3
|
42
|
45
|
1,096,993
|
24.22
|
日本共産党
|
18
|
7
|
0
|
0
|
11
|
9
|
9
|
653,811
|
14.43
|
民社党
|
4
|
3
|
0
|
0
|
1
|
4
|
4
|
221,132
|
4.88
|
諸派
|
0
|
0
|
0
|
0
|
0
|
1
|
0
|
1,811
|
0.03
|
無所属
|
1
|
0
|
0
|
0
|
1
|
0
|
1
|
276,663
|
6.11
|
|
126
|
78
|
10
|
0
|
38
|
113
|
120
|
4,527,993
|
100
|
- 注:得票数に関し、案分票で生じた小数点以下の得票は切り捨てた。
選挙の結果、これまで都議会第一党だった社会党が議席を大幅に減らして惨敗、自民・公明に次ぐ第3党に転落した。そして自民党は第一党の座を取り返したが、過半数を占めるまでにはいたらなかった。公明党は25名の候補者全員が当選、共産党は選挙前の議席を倍増した。民社党は現状維持に留まった。
当選した議員
自由民主党
公明党
日本社会党
日本共産党
民社党
無所属
補欠選挙・繰上当選・当選人更正
年 |
月日 |
選挙区 |
当選者 |
当選政党 |
欠員 |
欠員政党 |
欠員事由
|
1969年
|
8月6日
|
千代田区選挙区 |
川俣光勝 |
無所属 |
山口虎夫 |
自由民主党 |
死去(繰上当選)
|
1970年
|
3月1日
|
立川市選挙区 |
若松貞一 |
自由民主党 |
中村富雄 |
自由民主党 |
死去
|
6月6日
|
江東区選挙区 |
深野昱子 |
自由民主党 |
小倉康男 |
日本社会党 |
当選無効(投票集計ミスにより当選人更正決定)
|
1971年
|
4月11日
|
練馬区選挙区 |
奥山則男 |
自由民主党 |
高橋久子 |
日本社会党 |
死去
|
1972年
|
12月10日
|
江戸川区選挙区 |
長沢透 |
自由民主党 |
井上浩一 |
公明党 |
死去
|
鈴木善次郎 |
公明党 |
渋沢利久 |
日本社会党 |
第33回衆議院議員総選挙立候補準備のため辞職
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主な出来事
- 練馬区投票所襲撃事件
- 江東区選挙区集計ミスによる当選人の更正
- 江東区選挙区(定員4人に9人が立候補)で深野昱子(自由民主党)が、4位で当選となった小倉康男(日本社会党)と4票差で5位となり落選した。これに対し再集計を求めて東京高等裁判所に提訴。1970年4月15日に裁判所が有効票を検証したところ、3位で当選した村井大吉(自由民主党)の票の束が小倉の得票内に紛れ込んでいたことが発覚した。これにより、小倉の投票数から500票を減算されて、深野が小倉の票数を逆転して4位となり「当選人の更正」により当選(3位当選の村井の順位と当選決定は変わらず)、4位で当選していた小倉は5位となり落選(当選無効)となった。判決は5月30日付で確定し、同年6月6日の選挙会で深野が当選人して改めて告示された[4][5]。
脚注
注釈
- 議員辞職
- 議員死去
- ^ 1969年8月4日、死去(投開票後3か月以内のため、次点者の川俣光勝(無所属)が繰上当選)。
- ^ 1972年8月2日、死去。
- ^ 1971年11月12日、死去。
- ^ 1970年2月24日、死去。
- ^ 1971年3月26日、死去。
- ^ 1970年1月21日、死去。
- ^ 1973年1月25日、死去。
- 注釈
- ^ 江東区選挙管理委員会による得票集計ミスが判明し、1970年5月30日付で東京高等裁判所で当選無効が確定。これに伴い、同年6月6日の選挙会で5位落選であった深野昱子(自由民主党)が当選人として更正決定[4]。
出典
- 朝日新聞社『朝日新聞縮刷版 1969年6月号』
- 朝日新聞社『朝日新聞縮刷版 1969年7月号』