黔牟(けんぼう、生没年不詳)は、衛の第17代君主。宣公の子。
生涯
宣公の子として生まれる。
恵公4年(前696年)11月、恵公の叔父である左公子洩と右公子職は、恵公が太子伋殺害に関与していたことを怨み、恵公を攻撃し、太子伋の弟である黔牟を衛君に立てた。攻撃された恵公は斉へ出奔した。
黔牟元年(前695年)秋、衛は魯・宋とともに邾を撃った。
黔牟8年(前688年)6月、斉の襄公が周王の命を奉じて諸侯の軍を率い、黔牟を撃って恵公を衛に戻した。左公子洩と右公子職は誅殺され、黔牟は周に逃亡した。
恵公25年(前675年)、恵公は周が黔牟をかくまっていることを怨み、燕とともに周を攻撃した[1]。周の恵王が温(現在の河南省温県南部)へ逃亡したので、衛と燕は恵王の弟である穨(たい)を周王に立てた。
脚注
- ^ 『史記』衛康叔世家では黔牟のために周へ侵攻したとあるが、『史記』周本紀や『左氏伝』では「周で辺伯・石速・詹父・子禽・祝跪の5人の大夫が叛乱を起こし、燕と衛の軍を招き寄せて恵王を撃った。」とある。
参考資料
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- 康叔?-?
- 康伯?-?
- 孝伯?-?
- 嗣伯?-?
- 寁伯?-?
- 靖伯?-?
- 貞伯?-前867
- 頃侯前866-前855
- 釐侯前855-前813
- 共伯前813
- 武公前812-前758
- 荘公前757-前735
- 桓公前734-前719
- 州吁前719
- 宣公前718-前700
- 恵公前699-前696
- 黔牟前696-前688
- 恵公前688-前669
- 懿公前668-前660
- 戴公前660
- 文公前659-前635
- 成公前634-前600
- 穆公前599-前589
- 定公前588-前577
- 献公前576-前559
- 殤公前558-前547
- 献公前546-前544
- 襄公前543-前535
- 霊公前534-前493
- 出公前492-前480
- 荘公前479-前478
- 衛君起前477
- 出公前476-前470
- 悼公前455-前451
- 敬公前450-前432
- 昭公前431-前426
- 懐公前425-前415
- 慎公前414-前373
- 声公前372-前362
- 成侯前361-前333
- 平侯前332-前325
- 嗣君前324-前283
- 懐君前282-前253
- 元君前252-前230
- 衛君角前229-前209
- 滅亡
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