黄文 備 (きふみ の そなう)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。姓は連。官位は従五位下・主税頭。
出自
黄文氏は「黄書」とも表記し、『日本書紀』巻第二十二によると、
是の月(九月)に始めて黄書画師(きふみのゑかき)・山背画師(やましろのゑかき)を定む
とあるのが初出で、『新撰姓氏録』山城国諸蕃では、「高麗国人久斯祁王」が出自であると言われている。同族に『薬師寺仏足石銘』に唐へ赴き仏足石を模写し、『日本書紀』巻第二十七によると、天智天皇に水臬(みずばかり=水準器)を献上したとする[1]黄書造本実、壬申の乱で活躍した黄書造大伴がいる。山城国久世郡を本拠地とした渡来系氏族で、元は「造」姓であったが、『書紀』巻第二十九によると、天武天皇12年(683年)連姓を与えられた[2]。
経歴
『続日本紀』巻第一によると、文武天皇4年(700年)、刑部親王以下19人と共に大宝律令撰定に加わり、その功績によって白猪史骨・土師宿禰甥と共に禄を与えられたが、この時の位階は「追大壱」(正八位上に相当)である[3]。
『続紀』巻第五によると、和銅4年(711年)、正六位上から従五位下に昇叙された[4]。『懐風藻』に「春日宴に侍す」という題の詩が掲載されており、それによると最終官位は主税頭従五位下で、享年は56としている。没年は不明である。
脚注
- ^ 『日本書紀』天智天皇10年3月3日条
- ^ 『日本書紀』天武天皇12年9月23日条
- ^ 『続日本紀』文武天皇4年6月17日条
- ^ 『続日本紀』元明天皇 和銅4年4月7日条
参考文献
- 『日本書紀』(五)、岩波文庫、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12 岩波書店、1989年
- 『続日本紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
- 『懐風藻』、全訳注江口孝夫、講談社学術文庫、2000年
- 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p4222(三省堂、1993年)
- 『日本の歴史3 奈良の都』、青木和夫:著、中央公論社、1965年
関連項目