鯰江氏(なまずえし)は、日本の氏族のひとつ。藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流。
概略
荘園時代には興福寺の荘官であったという。室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、近江国愛知郡鯰江荘(現 東近江市)に鯰江城を築き鯰江を称して以降、代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた。
永禄11年(1568年)に鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて天正元年(1573年)9月に鯰江城は落城、以後一族は各地に分散した。一部は同郡内の森に移住して森を姓とし、後に改姓し毛利氏となった。
なお定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源があり、旧鯰江町(現・大阪市城東区今福西)の鯰江小学校などに名を今日に残している。
このほか豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという。
また、出羽の鮭延氏は鯰江氏の一族と自称していた。高久・尚昌(高昌、高治)父子の子孫にあたる佐々木新太郎綱村が出羽に下向し、出羽北部の小野寺氏に仕えたという。後に山形城主の最上氏に降ってその重臣となった。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
脚注
外部リンク