髙橋 洸バンディッツ・ガールズ 監督 |
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巨人時代 |
基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
新潟県新潟市秋葉区 |
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生年月日 |
(1993-04-30) 1993年4月30日(31歳) |
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身長 体重 |
183 cm 76 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
外野手 |
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プロ入り |
2011年 ドラフト5位 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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監督歴 |
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髙橋 洸(たかはし こう、1993年4月30日 - )は、新潟県新潟市出身の元プロ野球選手(外野手)。
経歴
プロ入り前
日本文理高では、1年時の春からベンチ入り。夏には控え投手として第91回全国高等学校野球選手権大会に出場。自身の出場機会は無かったものの、チームは新潟県勢初となる甲子園決勝に進出。中京大中京高を相手に9回に強烈な粘りを見せるが、あと一歩及ばず9-10で敗退し準優勝。
2年時の夏に野手に転向するも、打撃の低迷から一時は野球を辞めるという考えにまで至ったが、チームメイトの励ましもあり思い留まる[1]。
3年時は、春に第83回選抜高等学校野球大会に8番・三塁手として出場。初戦は香川西高に8-1で勝利するも、2回戦で九州国際大付高に2-4で敗れる。
夏は4番に座り新潟県予選で打率4割を記録し[1]、優勝に貢献。第93回全国高等学校野球選手権大会出場を果たす。甲子園初戦の日大三高戦では、6回裏1死二塁の場面でレフト前にタイムリーを放つも[1]、チームは3-14で敗退した。高校通算15本塁打。
2011年10月27日、プロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツから5位指名を受け[2]、入団。
プロ入り後
2012年は怪我に苦しんだ[3]。
2013年11月4日、自由契約となることが球団側から発表された[4]。同月12日、巨人と育成契約を結んだ[5]。
2014年3月14日、走力を生かすために左打ちに登録変更されたが[6]、12月24日、再度右打ちに登録変更された[7]。
2017年10月28日、球団から戦力外通告を受けた。31日、自由契約公示された[8]。
社会人野球時代
2017年11月15日、12球団合同トライアウトに参加。社会人野球の深谷組硬式野球部(さいたま市)からオファーを受け、2018年、深谷組に入社、内野手としてプレーした[9]。
2018年8月に深谷組を退社[10]。11月13日に自身2度目となる12球団合同トライアウトに参加し、5打席で四球を2つ選んで盗塁を1つ決めるも、安打は放てなかった[11]。BCリーグ・信濃グランセローズからのオファーはあったもののNPB球団からのオファーはなく[12]、翌12月、自身のツイッターにて「ここで、野球プレイヤー引退致します」との意思を示した。
現役引退後
2019年3月1日、医療機器の販売やレンタルを行う株式会社メディカリJPに入社[13]。3月2日放送のTBS『バース・デイ』でトライアウトからメディカリJP入社までの様子が取り上げられた[12]。
同時に指導者への道も探っていると、2020年より始動する北陸初の社会人女子硬式野球チーム・バンディッツ・ガールズから監督のオファーを受け、就任を決断。メディカリJPを退社し、チームが所在する富山県へ家族と共に移り住んだ[14][15]。運営元を同じくする少年野球チーム「バンディッツヤング」のコーチも兼任する[16]。
選手としての特徴・人物
パンチ力を備える打撃、50m走5秒8の俊足、遠投110mの強肩が武器の走攻守三拍子揃った選手。高校時代は三塁手だったが、プロ入り後は主に中堅手として起用される。野手になって日が浅く、これからの変わり身に期待されていた[2][17]。
ドラフト指名後の記者会見で、「吉報を真っ先に伝えたい人は」との問いに「両親もそうですが、一番は世話になった兄です」と答えた。高橋の兄は、高橋洸が野球を始めたきっかけであり、弟を日本文理高に進学させるために自身は公立校へ進学していた[18]。
詳細情報
年度別打撃成績
背番号
- 67 (2012年 - 2013年)
- 007 (2014年 - 2017年)
脚注
関連項目
外部リンク