『高校大パニック』(こうこうだいぱにっく)は、1978年に公開された日本の映画作品。1976年に8ミリ自主映画用に制作された同名作品を日活で劇場用35ミリでリメイクした[2][3]。同時上映は『帰らざる日々』。本項では8ミリ作品についても述べる。
概要
福岡博多の名門高校を舞台に、受験地獄を呪う若者達の叫びと過剰な受験ストレスが爆発し、銃を持った一人の生徒の反乱と叫びを描く。学生達の8ミリ自主映画グループ“狂映舎”と日活のスタッフがジョイントして製作、原案、監督に“狂映舎”のメンバーが参加している。当時のキャッチコピーは、劇中のセリフから引用した「数学できんが、なんで悪いとや!」。映画化を申し入れたにっかつは、監督もやらせて欲しいという狂映舎側の要求を受け入れ、ベテラン澤田幸弘との共同ではあるが、弱冠21歳の石井聰亙を監督に迎え入れた。
あらすじ
福岡市内で中州高校3年の生徒・田中がビルの屋上から飛び降り自殺した。翌日、マスコミの攻撃から学校の体面を守ろうとする校長は、全校生徒に田中の自殺の無意味を説く。田中のクラスの3年7組は沈黙に包まれたが、担任の数学教師・伊原は何事もなかったように授業を始めようとする。そんな態度に激昂した城野安弘は伊原を殴り倒して学校を飛びだし、銃砲店に押し入って一丁のライフルを手にして戻ってくると、伊原をライフルで射殺。更に校内で発砲し、学校は血の惨劇の舞台と化した。女生徒・村上美穂子を人質に取った城野は学校と警察を相手に、銃撃による攻防戦を展開する。
キャスト
スタッフ
製作
石井聰亙が高校時代に映写機・カメラとも急に普及し[2]、高額だった8ミリ機材も比較的手に入りやすい状況となった[2]。それでもいざ映画を作れば制作費は数十万円かかるため、高校時代は映画を撮ることはなかったが、日芸入学後に同時録音カメラやエルモ社のグランドモデルという劇場でも明るく大画面で16ミリと遜色なく上映できる映写機なども出たため、8ミリで『高校大パニック』を撮った[2]。ちょうど長谷川和彦監督が、20代で『青春の殺人者』を撮り上げたことで、当時の映画ジャーナリズムが新しい時代の到来などと騒ぎ[2]、『GORO』が長谷川に大学生が作った映画を見せ、『高校大パニック』を観た長谷川と石井の対談が組まれ[2]、長谷川は石井の相談に乗った[2]。1982年に共に「ディレクターズ・カンパニー」を設立したのはこうした経緯による[2]。日比野幸子[4]は「東映が柳町光男監督の『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』を安く買い叩いて儲けたのを見た日活が、柳の下の泥鰌的発想で『高校大パニック』を日活で作らせたんだと思う」と述べている[2]。8ミリ映画の劇場用35ミリのリメイクは初めてのケースとされた[2]。石井のギャラは、企画・脚本料・スタッフ込みで日活としては破格の200万円[2]。長谷川の日活時代の脚本料は一本15万円[2]。
撮影
長谷川は「俺は大森一樹が『オレンジロード急行』を撮るときも石井が『高校大パニック』を撮るときも、二人にやめろと言ったんだ。赤子の首をひねるように、いいように撮影所にいてまわされる。そら、撮影所の見学はしたいだろうけども、見学したってあんまり実りはないから。8年も助監やってる俺が言うんだからな。しかしともかく見てきます、という感じで行ったわけだよ。石井は。大分メゲてたよな」 石井「全くそのとおりです」 長谷川「そのときの経験を石井はプラスにしたんだと思うよね。日活の撮影所で『お前どけ、そこで何やってんだ』とか言われて、僕も監督の一人です(笑)。それは辛いことだったろうと思う。それくらい石井も大森も撮影所にあこがれが強かったんですよ」 石井「確実にあったもの」 長谷川「逆に作品の中身の発想が、企業でも作れちゃうような、作りたくなるような映画だったわけだよな。だから『高校大パニック』は8ミリ版と35ミリ版が両方成立しちゃう」などと述べている[2]。本作は石井と澤田幸弘の共同監督だが[3]、石井は「実際にはまったく何もできませんでした」と話し、「触れてほしくない(?)過去」ともいわれる[3]。
影響
同年4月には松竹が大森一樹に『オレンジロード急行』を監督させており、あいつぐ自主映画作家の大手撮影所進出は大きな話題を呼んだ。前年にはCF業界での多年の活躍を経て(したがって撮影所経験は豊富)ではあるが東宝の大林宣彦監督『HOUSE ハウス』もある。
関連項目
脚注
外部リンク