鎌田 慧(かまた さとし、1938年6月12日[1] - )は、日本のルポライター[2][3]。シューレ大学アドバイザー。
来歴
青森県弘前市出身。青森県立弘前高等学校卒業後に上京し、零細工場で働く。カメラ工場の見習工などを経て、1959年10月中央謄写学院印刷部を退職、1960年4月早稲田大学第一文学部 [要検証 – ノート]露文科に入学。
大学卒業後、業界紙(鉄鋼新聞社)記者、月刊誌「新評」編集部を経て、フリーのルポライターとなる。トヨタ自動車の期間工の経験をもとに『自動車絶望工場』を発表した[4]。
1990年(平成2年)、『反骨 鈴木東民の生涯』で新田次郎文学賞受賞。翌年、『六ヶ所村の記録』で毎日出版文化賞受賞。1994年(平成6年)に発表した葛西善蔵の評伝『椎の若葉に光あれ』をはじめ、大杉栄、太宰治、鈴木東民、坂本清馬などを題材に、伝記も多数執筆している。
神奈川県警察機動隊が成田国際空港建設反対派の新左翼集団による攻撃を受けて警察官3名が殉職した1971年の東峰十字路事件を契機に三里塚闘争に関与し、空港建設反対運動に参加。成田空港反対派として、「廃港要求宣言の会」の事務局長となっていた[5][6]。1978年の成田空港管制塔占拠事件ではデモ隊に加わっている[7]。1990年には、辻元清美・中山千夏とともに三里塚芝山連合空港反対同盟青年行動隊による「三里塚わくわくツアー」の発起人となっている[8]。2017年現在も三里塚芝山連合空港反対同盟(旧熱田派[9])の活動に参加している[10]。1995年には、中曽根内閣が狙った、国鉄の分割、民営化には井上ひさし、赤川次郎、左幸子、永畑道子、佐野洋、武谷三男、久野収、筑紫哲也などの呼びかけ人と「JRに人権を」の運動をはじめる。冤罪の狭山事件では、1999年に「狭山事件の再審を求める市民の会」を結成、事務局長。国語学者の大野晋の協力を得て、「日本語の練習問題です」の全面広告を朝日新聞にだす。
2011年3月の福島原発事故のあと、脱原発をめぐって、2011年6月、大江健三郎、坂本龍一、内橋克人、澤地久枝、瀬戸内寂聴、鶴見俊輔、落合恵子、辻井喬などと「さようなら原発」運動を呼びかけ、東京の明治公園、代々木公園、日比谷野外音楽堂などでの大集会とパレードを実施、各地域の集会に参加している。
「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めている[11]。
安保関連法案に反対する2015年8月30日の国会前デモでは、「戦争をさせない1000人委員会」の呼びかけ人の一人として壇上に立ちスピーチした。
2018年には沖縄県辺野古の米軍基地建設反対運動に参加している [1]。
2019年関西生コンを支援する会の共同代表に就任した[2]。
日本による対韓輸出優遇撤廃に反対する、<声明>「韓国は「敵」なのか」呼びかけ人の1人[12]。
2006年4月から東京新聞に「本音のコラム」を週1回連載中。
著書
共編著
- 回想の戸村一作(編著)柘植書房 1981
- 三里塚東峰十字路 権力の闇と55人の無罪(編著)第三書館1985
- 日本人の仕事 平凡社 1986
- 国境を越えて 東欧民主化とEC統合の若者への旅 牧野剛共編著 河合出版 1991
- 大震災復興への警鐘 内橋克人共著 岩波書店 1995 (同時代ライブラリー
- スチュワーデスはアルバイトでよいのか 安全は?雇用は?(編)岩波ブックレット 1995
- いじめられている君へ いま言えること、伝えたいこと 保坂展人共著 徳間書店 1995
- 危ない学校希望の子育て 楽しい関係をいかに創るか 灰谷健次郎共著 光文社 2000(カッパ・ブックス)
- 人権読本(編著)岩波ジュニア新書 2001
- 大杉榮語録(編)岩波現代文庫 2001
- 反憲法法令集(編)岩波現代文庫 2003
- 「新日本文学」の60年 七つ森書館 2005
- さようなら原発(編著) 岩波ブックレット 2011
- 反撃―民意は社会を変える かもがわ出版 小森陽一対談 2013
- いいがかり 原発「吉田調書」記事取り消し事件と朝日新聞の迷走(編著)七つ森書館 2015
- 軟骨的抵抗者 演歌の祖 添田啞蟬坊を語る 土取利行(共著)金曜日 2017
出演
脚注
注釈
- ^ 実際のタイトルには秋田児童連続殺害事件の犯人の本名が含まれているが、削除の方針に抵触する可能性があるため日本語版Wikipedia上ではイニシャルでの表記とする。
出典
外部リンク