鍋島 綱茂(なべしま つなしげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。肥前国佐賀藩3代藩主。号は至徳斎。官位は従四位下・信濃守、侍従。
略歴
2代藩主・鍋島光茂の長男として誕生。母は上杉定勝の娘・虎姫。幼名は左衛門。4代将軍・徳川家綱より偏諱を授与されて綱茂と名乗る[1]。
元禄8年(1695年)、光茂の隠居により家督を継ぐ。
元禄11年(1698年)、西御屋敷(大名庭園「観頤荘」、かんいそう)の造営を命じ、ここで政務を行うこともあった[2]。
宝永3年(1706年)に56歳で死去した。法名は玄梁院殿卓巌道印大居士。男子が無かったため、実弟・吉茂が養子として跡を継いだ。
「学問を好み給ひ、詩をも能し、書画にも達し給ひぬ」(堤範房著『雨中の伽』「文学」、文化9年(1812年)自序)と評され、文事を得意とした藩主だった。絵事は、藩御用絵師の小原友閑斎が師範を務め、河村若芝門人である上野若元を召し抱えたことなどが知られる。綱茂自身の絵も「八仙人図」[3](鍋島徴古館蔵)など、狩野派をよく学んだことがわかる作品が残っている。
系譜
脚注