銭玄同

銭玄同
新文化運動時期の銭玄同教授
プロフィール
出生: 1887年9月12日
光緒13年8月8日
死去: 1939年民国28年)1月17日
中華民国の旗 中華民国 北京市
出身地: 清の旗 浙江省湖州府帰安県
職業: 言語学家
各種表記
繁体字 錢玄同
簡体字 钱玄同
拼音 Qián Xuántóng
和名表記: せん げんどう
発音転記: チェン シュアン トン
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銭玄同(せん げんどう)は中華民国言語学者新文化運動の担い手の一人。本名は銭夏。は徳潜。は「疑古」(疑古玄同)。漢字の廃止をもっとも激烈に説いた人物として知られる。

来歴

幼少時に家塾で学び、1906年に日本の早稲田大学に留学し、師範を専攻。1907年に東京で章炳麟の紹介で中国同盟会に入会。1908年に銭玄同と友人魯迅黄侃など一緒に章炳麟に師事し、そこで古文経学、小学(文字の形体・音韻訓詁について研究した。

1910年に帰国、1913年に国立北京高等師範学校(1923年正式に国立北京師範大学と改称)の教員となり、1916年に教授となった。銭玄同は長い間に、国立北京師範大学と北京大学で経学、小学などの講義を担当し、同時に、北京師範大学の中国語の学部主任を兼任した。有名な弟子に黄現璠羅常培魏建功、白滌洲、趙蔭棠、王静如、丁声樹など。

1915年9月15日、陳独秀上海で「新青年」という白話運動を推進する文学革命の中心的啓蒙雑誌を創刊した後に、銭玄同・魯迅・胡適李大釗呉虞周作人などの人々が、雑誌に熱心に寄稿した。銭玄同は文字改革と漢字の廃止を主張し、文字革命の宣伝に尽力し、新文化運動の中心人物となった。

1939年1月17日に脳溢血のため北京で死去。享年52。[1]

主な著作

脚注

関連項目