野上 国佐(のがみ くにすけ、1774年(安永3年) - 1846年(弘化3年))は、久保田藩の下級能史である。明徳館の最高職である酒祭などを歴任する。国佐は通称で、野上陳令や東蔵とも称した。字は安民または子民であった。号は楢山、自得、千秋園、古香庵で、家に作った塾の名は好古堂(興進堂)といった。
来歴
人物
出羽久保田藩第9代藩主佐竹義和の藩政改革により頭角を現した下級能吏の一人。野上の禄高は最初40石にすぎなかったが、最終的には125石に達した。久保田藩のいわゆる「改革派官僚」の一人である。
武道が得意で、楢山すなわち金照寺山に隠宅を設けていた。家塾では数百人に武道を教え、天流兵法および柏木流の師範をしていた。
性格は生真面目で「能代方御用日記」に次のようなエピソードが記録されている。能代方片付(かたづけ)を仰せつかった野上はその直後、上役から「木羽代不納帖」という帳簿を預けられる。これは前任者が上役の依頼に応じて私的に融通した木羽の代金の不納分を記録したものだが、野上はこれは公用ではなく自分が処理するものではないとして、前任者に帳簿を突き返している[1][2]。
北浦一揆の前年には、藩内の不穏な空気を感じた野上は佐竹義厚に再三にわたって領内の巡行を促している。しかし、実際に佐竹義厚による領内の巡行が実施されたのは、北浦一揆が起きてからであった。1834年や1840年には、佐竹義厚に対して人払いをして、君主と政治の基本を進講している。内容は儒学の基礎ともいえるものであり、このため金森正也は「野上にとって義厚は、期待から遠い主」であったのではないかとしている。
野上は佐竹藩重臣の渋江和光と対立した。渋江和光は御相手番という役職であり、家老に準じる役職であるが、実際の所は登城して藩主や同僚との相手をするという閑職でもあった。渋江和光は家老たちに諫言することもいとわない下級官僚が嫌いであった。渋江和光は刈和野に所領を持っていた。刈和野に明徳館の郷校を設置するにあたり、トラブルが発生する。藩の上層部は事を荒立てない処理を望んだが、野上国佐は徹底的に理論で対抗した。渋江和光は、初代渋江内膳以来の家柄で「自分と"上"は同じである」とまでも言っているのに対し、下級官僚の野上国佐はそれを「私意」であると切り捨てて、組織人にあるまじき行いであるとまで断罪し、一歩も後に引かなかった。この件は、結果的に野上の主張が通った。『渋江和光日記』には、北浦一揆の対応策で藩主が巡行したことに触れ「大変恐れ多いことだが、御威厳を貶めることになった。役人達の上申により実現したことと聞いているが、役人達は何が大切なのかを分かっていない」と書いている。また、藩の財政が逼迫し佐竹家家宝を売って不足分にあてた件でも「かような事みなもって祭酒の馬鹿野上国佐がいたし候事」「国佐は大不孝、その上祭酒など相勤め候にはこれなく候」とある。
野上の墓は金照寺山にある。野上国佐には実子がいなく、弟軍蔵の子である野上陳考が義子として跡を継いだ。
著作物
- 「能代方御用日記」『能代史誌』資料編 近世一 収録
- 「能代方御用留」『能代史誌』資料編 近世一 収録
脚注
- ^ 『能代史誌』資料編近世一
- ^ 『能代市史資料 第13号』野上陳令能代方御用日記、1982年、p.15-16
参考文献
- 「秋田藩」研究ノート、金森正也、2017年、無明舎出版
- 秋田県公文書館 研究紀要 創刊号 p.11-p.35、平成7年3月