走井 盛秀(はしりい もりひで)は、戦国時代の武将。官途は備前守。
概要
走井氏は河内国茨田郡走井荘の国人で、畠山氏の家臣で河内国の守護代を務めた遊佐氏の被官(内衆)であった家。「観心寺文書」には、永正年間(1504年〜1521年)に走井康秀の名前が見える[2]。
天文20年(1551年)5月には河内守護代・遊佐長教が暗殺され、河内国支配の主導権を巡り、萱振氏(萱振賢継)、鷹山氏(鷹山弘頼)、野尻氏、中小路氏、田川氏、吉益氏が粛清されているが[3][4]、これは盛秀と安見宗房、丹下盛知が協力して行ったものであった[2]。3人は遊佐太藤を長教の後継者として擁立した。なお、安見宗房が河内守護代となったとする俗説があるが、これは史料的に証明されておらず、実際の家格は盛秀・盛知と同格かそれ以下であった[2]。また、同時期に子供2人が死去したという[1]。
その後も安見宗房と協力して、河内国高屋城を拠点として河内国を三好長慶と争った[2]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 『兼右卿記』天文20年10月14日条
- ^ a b c d 弓倉弘年「中世後期畿内近国守護の研究[1]」
- ^ 『言継卿記』天文21年2月21日条
- ^ 「良尊一筆書写大般若経奥書集」
関連項目