豊岡 治資(とよおか はるすけ)は、江戸時代後期から幕末にかけて活動した公卿。名家豊岡家の第8代当主。
生涯
出生と前半生
寛政元年11月11日(1789年12月27日)、豊岡和資の子として誕生。母は高丘敬季の娘。
寛政5年1月5日(1793年2月15日)、叙爵。享和3年12月17日(1804年1月29日)、元服し昇殿を許され、拝賀した。
文化4年9月22日(1807年10月23日)、恵仁親王への親王宣下があり、親王の職事となった。文化6年3月24日(1809年5月8日)、立太子と坊官除目があり、春宮少進を兼ねて拝賀した。
文化14年3月22日(1817年5月7日)、光格天皇が譲位し恵仁親王(仁孝天皇)が践祚すると、光格上皇の院別当となり、同日拝賀した。
公卿、外弁歴任
文政02年1月4日(1819年1月29日)、従三位に叙され、公卿に列せられた。同年4月13日(5月6日)、父の和資が薨去して服喪し、5月4日(6月25日)に除服出仕した。
文政5年1月1日(1822年1月23日)、元日節会の外弁を務めた。
文政6年12月19日(1824年1月19日)、正三位に昇叙した。これが極位となる。
文政7年1月1日(1824年1月31日)、元日節会の外弁を務めた。文政8年1月2日 (旧暦)(1825年2月19日)、白馬節会の外弁を務めた。文政10年1月2日(1827年1月28日)、再び白馬節会の外弁を務めた。文政11年1月1日(1828年2月16日)、元日節会の外弁を務めた。文政12年11月14日(1829年12月9日)、豊明節会の外弁を務めた。天保4年1月2日(1833年2月21日)、白馬節会の外弁を務めた。天保6年11月19日(1836年1月7日)、再び豊明節会の外弁を務めた。天保8年1月1日(1837年2月5日)、元日節会の外弁を務めた。天保9年1月1日(1838年1月26日)、再び元日節会の外弁を務めた。天保10年1月12日(1839年2月25日)、踏歌節会の外弁を務めた。天保11年1月2日(1840年2月4日)、白馬節会の外弁を務めた。
光格上皇の崩御
天保11年11月18日(1840年12月11日)に光格上皇が崩御すると、同年12月20日(1841年1月12日)、御服を賜った。翌年1月20日(1841年2月11日)、除服を宣下された。
天保13年1月14日(1842年2月23日)、踏歌節会の外弁を務めた。天保14年1月1日(1843年1月30日)、元日節会の外弁を、11月24日(1844年1月13日)、豊明節会の外弁を務めた。天保15年1月2日(1844年2月19日)、白馬節会の外弁を務めた。弘化2年1月1日(1845年2月7日)、元日節会の外弁を務めた。弘化3年1月12日(1846年2月7日)、踏歌節会の外弁を務めた。
孝明天皇の治世
弘化5年1月12日(1848年2月16日)、踏歌節会の外弁を務め、一献の後退出した。嘉永2年1月2日(1849年1月25日)、白馬節会の外弁を務めた。嘉永5年1月1日(1852年1月21日)、元日節会の外弁を務めた。嘉永6年1月2日(1853年2月9日)、白馬節会の外弁を務め、同年11月15日(1853年12月15日)、豊明節会の外弁を務め、二献の後に退出した。
嘉永7年4月11日(1854年5月7日)、大蔵卿を辞し、同日薨去した。享年66歳。
官歴
文政二年以前は『公卿補任』第五篇, 仁孝天皇文政二年条を参照。
系譜
出典がないものは『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 203を参照。
脚注
注釈
出典
参考文献