行政院(ぎょうせいいん)は、中華民国(汪兆銘政権)に存在した最高行政機関である。
沿革
1940年(民国29年)3月30日の南京国民政府樹立とともに設置され、国民政府代理主席の汪兆銘が院長、褚民誼が副院長に就任した。行政院の発足当初の下部機構は内政・外交・財政・軍政・海軍・教育・司法行政・工商・農礦・鉄道・交通・社会・宣伝・警政の14部と賑務・辺疆・僑務・水利の4委員会であったが、当初から組織の肥大化や官僚主義化が問題になっていた[1]。
1941年(民国30年)8月15日、中央政治委員会第58回会議で行政機構改革(第1次改組)及び人事調整案が採択された[1]。この第1次改組で社会部は廃止され、社会運動指導委員会が独立した[1]。
1943年(民国32年)1月13日には第3次改組が実施された[1]。第3次改組で社会運動指導委員会は廃止され、振務委員会と統合されて社会福利部に改組された[1][2][3]。
組織
行政院には以下の下部組織が設置された[2][4]。
- 内政部(中国語版)
- 外交部(中国語版)
- 財政部
- 軍政部(1942年に陸軍部へ改称・軍事委員会へ移管)
- 海軍部(中国語版)(1942年に軍事委員会へ移管)
- 教育部
- 司法行政部
- 工商部(1941年に農礦部と合併して実業部となる)
- 農礦部(1941年に工商部と合併して実業部となる)
- 実業部(中国語版)(1941年に工商部と農礦部が合併して成立)
- 鉄道部(1941年に交通部へ編入)
- 交通部(1943年に水利委員会と合併して建設部となる)
- 社会部(1941年に社会運動指導委員会へ改組)
- 宣伝部
- 警政部(1941年に内政部へ編入)
- 銓敘部(1943年に考試院(中国語版)から行政院へ移管)
- 社会福利部(1943に賑務委員会と社会指導委員会が合併して成立)
- 糧食部(1943年に糧食管理委員会から改組・1944年に実業部へ編入)
- 建設部(1943年に交通部と水利委員会が合併して成立)
- 賑務委員会(1943年に社会指導委員会と合併して社会福利部となる)
- 辺疆委員会(1943年に内政部へ編入)
- 僑務委員会(1943年に外交部へ編入)
- 水利委員会(1943年に交通部と合併して建設部となる)
- 全国経済委員会(中国語版)(1941年に成立・1943年に国民政府の直轄に変更)
- 糧食管理委員会(1940年に成立・1943年に糧食部へ改組)
- 新国民運動促進委員会(1942年に成立・1945年に中国国民党中央党部へ移管)
主要な官僚
院長・副院長
代
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院長
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写真
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在任期間
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副院長
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1
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汪兆銘
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1940年3月30日 - 1944年11月10日
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褚民誼
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2
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陳公博
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1944年11月12日 - 1945年8月16日
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周仏海
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秘書長
- 陳春圃(1940年3月31日就任)
- 周隆庠(1943年9月10日就任)
副秘書長
- 鄒敬芳(中国語版)(1943年1月26日就任)
- 巫蘭渓(1943年1月26日就任)
- 薛蓬元(1943年9月16日就任)
- 胡沢吾(中国語版)(1945年2月6日就任)
簡任秘書
- 注:1944年5月時点の在職者
政務委員
- 傅式説(1941年8月16日就任)
- 李士群(1941年8月16日就任)
- 陳君慧(1941年8月16日就任)
- 趙尊嶽(1941年8月16日就任)
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- 陳済成(1941年12月31日就任)
- 蔡培(1942年2月28日就任)
- 汪曼(1942年6月4日就任)
- 蘇成徳(1942年6月30日就任)
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- 戴英夫(中国語版)(1942年8月27日就任)
- 顧継武(1942年8月27日就任)
- 陳済成(1943年1月13日就任)
- 岑徳広(1943年1月13日就任)
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参事庁長
- 鄒敬芳(1941年11月25日就任)
- 陳君慧(1940年4月1日就任)
法制局長
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e 堀井弘一郎「汪精衛政権下、総動員体制の構築と民衆」(日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.9, 39-50 (2008) )
- ^ a b 林代昭 (1988) (中国語). 中国近代政治制度史. 重庆出版社
- ^ 刘国铭 (1989) (中国語). 中华民国国民政府军政职官人物志. 春秋出版社
- ^ 张宪文 (2005). “附录” (中国語). 中华民国史 第4卷. 南京大学出版社
関連項目