蝦名賢造

蝦名 賢造
人物情報
生誕 (1918-01-22) 1918年1月22日
日本の旗 日本 青森県東津軽郡小湊町
死没 2009年1月3日(2009-01-03)(90歳没)
日本の旗 日本 神奈川県三浦市
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 経済学
研究機関 <巣鴨経済専門学校北海学園大学獨協大学
学位 経済学博士
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蝦名 賢造(えびな けんぞう、1918年大正7年)1月22日 - 2009年平成21年)1月3日[1][2][3])は、日本海軍軍人経済学者、伝記作家。専門は財政学獨協大学名誉教授

経歴

出生から修学期

1918年、青森県東津軽郡小湊町で生まれた。旧制巣鴨中学校を卒業し、浦和高等学校 (旧制)東京帝国大学経済学部に進学した。1941年に卒業。

海軍時代

卒業後は、海軍兵科予備学生(1期)として海軍に入隊。連合艦隊司令部附となり、海軍甲事件で負傷した宇垣纏の秘書を務め、『戦藻録』の一部を筆記した[4]。最終階級は大尉

戦後

1945年、巣鴨経済専門学校教授に就いた。1947年、北海道大学法文学部予科専任講師に転じた。1950年、北海道総合開発委員会事務局次長に就任。1962年、学位論文『北海道の総合開発に関する研究 』を北海道大学に提出して経済学博士号を取得[5]1963年、北海道立総合経済研究所所長に就いた。

1964年、北海学園大学経済学部教授に就任。大学では、北海学園大学開発研究所第2代所長、1968年より北海道学園大学経済学部長を務めた。また、学界では北海道都市学会会長を務めた。

1971年、獨協大学経済学部教授に転じた。同校でも、同教務部長や同図書館長を務めた。1982年、獨協中学校・高等学校校長・学校法人獨協学園理事に就任。1989年、獨協大学を定年退職し、名誉教授となった。その後も、巣鴨学園理事(~2009年)、川村学園女子大学文学部客員講師(~1993年)として教鞭を執ったり教育にあたった。

2009年1月3日午後3時45分、腎不全のため神奈川県三浦市の診療所で死去[1][2][3]

著作

著書
  1. 上巻[8]
  2. 下巻[9]
  • 『死の家の記録:シベリア捕虜収容所四年間の断想』蝦名熊夫著、蝦名賢造編、西田書店 1989[10]
  • 遠藤隆吉伝:巣園の父、その思想と生涯』西田書店 1989[11]
  • 『札幌農学校:日本近代精神の源流』新評論 1991[12]
  • 稲葉秀三:激動の日本経済とともに60年』西田書店 1992[13]
  • 『生々示修養教本』遠藤隆吉著、蝦名賢造編、西田書店 1992
  • 『生々主義哲学』遠藤隆吉著、蝦名賢造編、西田書店 1992
  • 『北方のパイオニア』西田書店、1993[14]
  • 『戦中、われらが愛』西田書店、1994[15]
  • イタリア領リビア開発政策史論』高岡熊雄著、蝦名賢造編、学校法人北海学園 1995[16]
  • 畑井新喜司の生涯:日本近代生物学のパイオニア』西田書店 1995[17]
  • 石館守三伝:勇ましい高尚なる生涯』新評論 1997[18]
  • 隅谷三喜男:学問・信仰・人生』西田書店 1998[19]
  • 『時計台の鐘:高岡熊雄回想録』高岡熊雄著、蝦名賢造編、西田書店 1998[20]
  • 『硬教育:巣鴨学園の教育精神』西田書店 1998[21]
  • 『海軍予備学生』中央公論新社 1999[22]
  • 聖隷福祉事業団の源流:浜松バンドの人々』評論、1999[23]
  • 札幌市の都市形成と一極集中』西田書店 2000[24]
  • 『最後の特攻機:覆面の総指揮官宇垣纏』中央公論新社 2000[25]
  • 『北海道牛づくり百二十五年:町村敬貴と町村農場』西田書店 2000[26]
  • 日本橋近江商人:柳屋外池宇兵衛寅松家の四〇〇年』新評論 2001[27]
  • 『OD版 新渡戸稲造:日本の近代化と太平洋』新評論 2002[28]
  • 『札幌農学校・北海道大学百二十五年:クラーク精神の継承と北大中興の祖・杉野目晴貞』西田書店 2003[29]
  • 『いかなる星の下に』新評論 2004[30]
  • 『北海道大学の父佐藤昌介伝:その勇ましく高尚なる生涯』西田書店 2007[31]

出典

先代
高岡周夫
北海学園大学経済学部長
第3代:1968年 - 1970年
次代
外崎正次