藤原 貞憲(ふじわら の さだのり)は、平安時代後期の貴族・歌人。藤原南家貞嗣流、少納言・藤原通憲(信西)の次男。官位は従四位下・権右中弁。
経歴
対策に及第したのち、少納言や飛騨守を歴任する。正五位下・右衛門権佐に叙任されたのち、後白河院政期初頭の保元3年(1158年)保元の乱後権力を握っていた父・信西の差配により右少弁に五位蔵人を兼ね三事兼帯の栄誉に浴す。
平治元年(1159年)5月に従四位下・権左少弁に叙任され、閏5月には上﨟の左少弁・藤原朝方を越えて権右中弁に昇任される。しかし、同年12月に平治の乱が発生して信西が敗死すると、信西の子息は流罪となり、貞憲は土佐国への配流に処された。一説では、出家するもまもなく追っ手の兵士の手で殺害されたともいう[1]。いずれにしても、翌永暦元年(1160年)には兄弟の俊憲・成憲らが平安京に召し返されている一方で、貞憲にそのような形跡はなく、乱後まもなく没したか。
勅撰歌人として『千載和歌集』に和歌作品1首が採録されている[2]。
官歴
注記のないものは『弁官補任』による。
系譜
『尊卑分脈』による。
- 父:藤原通憲(信西)
- 母:高階重仲の娘
- 生母不詳の子女
- 男子:藤原光憲
- 男子:貞雅
- 男子:貞覚
- 男子:実玄
- 男子:貞慶(1155-1213)
- 男子:貞円
脚注
- ^ 『弁官補任』
- ^ a b 『勅撰作者部類』
- ^ a b c 『尊卑分脈』
参考文献